人気ブログランキング | 話題のタグを見る

⑨昭和の大蔵大臣 (294)

政府批判演説が外電に乗り国際的反響に
                       昭和59年12月6日
〈齋藤代議士除名)
ファシズムの猛毒は司法部門だけでなく、立法府部門、帝国議会をもおかす。その槍玉にあがるのが、さきに「粛軍演説」によって万丈の気を吐いた齋藤隆夫代議士なのだ。15年2月1日、成立したばかりの米内内閣のもとで議会が開かれた。各大臣の所信演説につづいて、民政党小川郷太郎、翌2日に政友会中島派東郷実、そして民政党斎藤隆夫が質問演説に立った。その演説は、1、政府は支那事変をどう考えているか。2、いつまでつづくのか。3、いかに処理されるのか。4、国民の失われた生命や財産をどうするか。の四つをポイントとしていた。その演説の後半部は官報速記録から削除されたが、たとえば草柳大蔵の『斎藤隆夫かく戦えり』は、その全文をおさめていて貴重である。官報速記録から削除された部分の中で、とくに問題となるのは、「この現実を無視して、唯いたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字をならべ立てて、そうして千載一遇(せんざいいちぐう)の機会を逸し、国家百年の計をあやまるようなことがありましたならば(後略)」「事変以来の内閣はなんであるか。外においては十万の将兵がたおれているにかかわらず、内においてこの事変の始末をつけなければならぬところの内閣、出る内閣も出る内閣も輔弼(ほひつ)の重責をあやまって辞職をする。内閣は辞職をすれば責任はすむかもしれませぬが事変は解決はしない。護国の英霊はよみがえらないのであります(拍手)」という箇所である。反響は、その夜軍部の中佐クラスからはじまった。彼らは、「聖戦を冒涜する非国民的演説だ」と激高して政府にねじこむ。陸軍の政府委員室から、「われわれが苦心中の南京(なんきん)新政府の成立に重大な悪影響をおよぼすこと必至である」という声が出ると、「問題は一挙に政治化」(草柳)した。官報掲載について、小山議長は後段全部削除を主張。大木書記官長は、演説の三分の二を削ることになるので、いやしくも言論の府であることを盾にとり抵抗したが、陸軍、政友会の声が高くなって、小山案どおりとなった。夜の九時、「新聞発表」のことに気づいたが、おそかった。「記事差し止め」の通達が出て、東京市内の新聞は削除済みの演説をのせた。しかし地方版には間に合わず、全文がのってしまった。それは、外国の通信社がそのまま打電し、国際的に大きな反響がおきた。斎藤の甥、山根隆夫軍曹は広東(かんとん)にいたが、「二個師団を失ったくらいの打撃だ」という声を耳にした。斎藤は、民政党を離脱した。政友会、社大党は追い打ちをかけ、懲罰委員会にかけて除名してしまった。議会はもっとも正論を吐く政治家を葬ることで、自らの首をしめてしまったのだ。
(おわり)
 

# by mako-oma | 2015-04-05 21:28 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

⑧昭和の大蔵大臣 (267)

軍部横暴の追求が「侮辱」に
                       昭和59年10月30日
〈腹切り問答〉
齋藤代議士の《粛軍演説》が代弁した国民の声をきいて、いわゆる軍部は反省の色をみせたであろうか。演説の10日後、陸海軍は管制改革を公表した。これによって軍部大臣現役武官制が復活した。政党はこれを黙認したが、実はこれが政治上の凶器ともいうべき危険なものだったのである。国民はこのあと間もなく、軍部の好まぬ内閣には陸軍大臣が送られないで、天皇の組閣大命を阻(はば)んだり、陸軍大臣を辞任させて内閣がつぶされる事実を目撃するのだ。そしてさらに、「庶政一新」のための議会制度改革を広田内閣に要求し、10月30日には新聞に陸軍の具体案が発表される。政党は大きなショックをうけた。なぜならばそのプランは、政党内閣制を否定していた。「政党法」をつくって政党の行動範囲を限定、議会は政府弾劾(だんがい)の権限をもたなくなる。普通選挙は廃止して、家長(戸主)と兵役義務修了者だけに選挙権をあたえる。時代逆行もはなはだしい非立憲的プランだったからだ。政党の怒りは、第70議会(昭和11年12月24日召集)における政友会浜田国松と寺内陸軍大臣との「腹切り問答」という形であらわれる。浜田は宇治市山田の出身で、このとき68歳。はじめ国民党、大正4年政友会に入党し、当選12回。9年には衆議院議長に選ばれ、10年3月には憲政功労者に選ばれていた。彼が12年1月22日に衆院で行った演説の紹介は割愛する。要は、軍の横暴が立憲政治を破壊するものだといったわけだ。ところがこれに対して寺内陸軍大臣は、「(前略)先ほどから浜田君が種々お述べになりました色々のお言葉をうけたまわりますると、中には或は軍人に対しましていささか侮蔑さるるようなごとき感じをいたすところのお言葉をうけたまわりますが、…(ノーノーの野次)これらはかえって浜田君のおっしゃいますところの国民一致のお言葉にそむくのではないかと存じます。(後略)」といったのである。憤然として浜田は登壇し、寺内を追求した。「(前略)陸相寺内君は私に対する答弁の中で、浜田の演説中軍部を侮蔑するの言葉があるということをおおせられた(中略)いやしくも国民代表者の私が、国家の名誉ある軍隊を侮蔑したという喧嘩を吹っかけられては後へ退けませぬ(拍手)。私の何等の言辞が軍を侮辱いたしましたか、事実をあげなさい(「その通り」と呼ぶものあり)。抽象的な言葉ではわかりませぬ。(後略)」寺内は、「(前略)侮辱するがごとくきこえるところの言辞は、かえって浜田君のいわれる国民一致の精神を害するからご忠告を申したのであります。(後略)」と答弁。浜田は三度目の登壇をして、「(前略)速記録を調べて僕が軍隊を侮蔑した言葉が合ったら割腹して君に謝する(「ヒヤヒヤ」拍手)なかったら君割腹せよ(拍手)」といった。このあと、寺内は強硬に衆院解散を主張したが、これはいれられず、議会の反省を求める意味で二日間の停会となった。
(つづく)



# by mako-oma | 2015-04-03 21:14 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

⑦昭和の大蔵大臣 (266)

斎藤演説に”反骨”水野も敬意と謝意
        昭和59年10月27日
〈大反響〉
斎藤隆夫代議士の「粛軍演説」の反響は大きかった。「満場静粛。時に万雷起る。議員多数、握手を求め、大成功を賞揚す。予も責任を果したる感あり大安心。速記を校閲し七時過ぎ帰宅」とはご本人の日記の記述である。その日、議会から直接東大の「音楽同好会」に足を運んだ渡辺銕造代議士(東京海上渡辺文夫会長の父)は、辰野隆などに向かって、「おれは今日の演説を聞いただけで代議士になった価値があったと思ったよ」と語ったという。各新聞は大見出しをつけて演説の一部を掲載し、歴史的大演説だと賞め上げた。その頃、愛媛県下でひっそりと暮らしている水野広徳という元海軍士官がいた。松山市は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって、秋山好古(陸軍大将)、真之(海軍中将)の存在が世に知られている。また、『肉弾』を書いた桜井忠温(陸軍少将で予備役)、『此一戦』を書いた水野広徳(海軍大佐で退役)の出身地でもある。ということは、正岡子規、高浜虚子などが出たことで日本文学史上「俳句」のメッカともいうべき土地であると同時に、「戦争文学」の両傑作が生まれた土地であるということでもある。これらの軍人のうち、水野ひとりは大いに変わっていた。秋山好古の海軍兵学校姿にあこがれて海軍に入り、のちに大将となった野村吉三郎、小林 躋造などといっしょに兵学校を卒業し、日露戦争では、水雷艦長の大尉として日本海海戦に参加し、明治43年36歳のときに『此一戦』を書いた。この帝国海軍の大勝利をたたえる記録は、「兵は凶器なり」という言葉ではじまり、「国大と雖(いえど)も、戦いを好む時は必ず亡び、天下安しと雖も、戦いを忘する時は必ず危し」の言葉でおわる。大正2年(1913)39歳で中佐となり、5年第一次大戦下のヨーロッパを見るため私費留学をする。そして、現代戦争がいかに大規模かを実感し、日本のような経済的貧困の国ではとうてい堪えられぬ、と考えた。すなわち、愛国的見地から戦争を否認し、軍国主義、帝国主義的思想が動揺をきたして、職業軍人として生きることに矛盾を感じた。大正7年44歳で大佐に進級。翌9年ふたたび私費留学の許可を得て、戦後のヨーロッパを視察し、その惨禍に胸を打たれた。ベルリンでの記述ー「僕は先に北仏戦場の惨状を見て現代戦争の恐るべく、忌むべく、厭(いと)うべく、呪うべくを知り、戦争に対する道徳観念に大なる動揺と疑惑とをました」(『反骨の軍人・水野広徳』、後篇「剣を解くまで」)。もはや軍人としての前途に希望を失った彼は、10年47歳で予備役。軍事評論家、社会評論家として立った。しかし「左傾的思想」として危険視され、執筆の自由を奪われていた。その水野の手紙が斎藤代議士にとどいたのである。「昨日の衆議院に於ける貴下の演説は、我が議会史上空前の名演説にして、我等国民は溜飲の下がる事ただに三斗のみにあらず、議会存在の意義を今日始めて教えられ候。謹(つつし)んで絶対の敬意と謝意とを表し候」 (つづく)
             

# by mako-oma | 2015-04-01 17:33 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

⑥昭和の大蔵大臣 (265)

明晰、鮮明な思想、アナグロ型思考の人 齋藤隆夫
                      
昭和59年10月26日
〈三つの特徴〉
齋藤隆夫代議士の、歴史に残る「粛軍演説」とは、前回までに紹介したような内容で、1時間25分を要した熱弁だったという。引用にしては長すぎる、とおもわれたかもしれないが、ただ要旨だけを紹介したのでは、大事な意味、いのちが失われるとおもって、ギリギリに削ったものだったのである。それでは、大事な意味、いのちとは何をいうのか。そのことをもっとも明快に指摘するのが草柳大蔵著『斎藤隆夫かく戦えり』の「いま、なぜ、斎藤隆夫=はしがきにかえて=」である。草柳が斎藤隆夫に取り組んだのは、「《言うべきことを言う》論者の実像をもとめたから」だという。その成果は雑誌『文藝春秋』に半年間連載された。すると、左右両翼から手紙が殺到した。右翼からは、「国民の間にようやくまっとうな防衛論議が起こりつつあるのに、なぜ、反軍思想を紹介するのか」と、頭ごなしに叱責された。左翼からは、「右傾化のいま、よくぞ反戦の政治家を取り上げてくれた」と、手放しの謝辞をうけた。草柳は、両方の手紙を読みながら、「歳月は、かくも実像を変えてしまうものか」という感慨を深めたという。そして書いている。「斎藤隆夫氏は反軍思想家でもなければ反戦政治家でもない。いわば、戦前の”平均的日本人”である。天皇を敬愛し、家族の健康をねがい、いつまでも郷里の但馬を懐かしみ、適当に教育パパで、娘の婚期がおくれるのを心配し、宴会用の歌曲を習い(これは大失敗だったが)、息子たちの学徒出陣の際には《お国の為になるんだぞ》と日の丸の旗を肩にかけてやっているのである」彼の「演説」は、彼の人間的特徴を物語っている。あるいは実証している。(それを見てもらうためにも、ギリギリいっぱいの引用を必要だと筆者はおもったのだ)草柳は、それを三点に要約する。第一は、《明晰さ》への求心力である。「この精神的傾向は、ひとつには同郷の先輩である加藤弘之博士(初代東大総長)の影響によるものと思われるが、そのほかにも若くしてエール大学に法律学を学び論理的訓練を身につけていること、地主的政党であった政友会が圧倒的に強かった選挙区から普通選挙の実現を目指して成長してきたこと等々、様々な要素の結晶と思われる。しかし、問題は斎藤氏の人間形成にあるのではなく、同氏の演説が権力の行使に《明晰さ》を追求し続けることによって、あたかもスタンダールが作品の中に試みた《鏡をおく》作業をもたらしていることである」第二は、思想の設計図が鮮明に読みとれること。つまり、聴く人に政治を進行形のまま理解させることができたことだ。第三は、アナログ型思考の人であったこと。事象を持続の相においてとらえつづけ、考えつづけるタイプである。問題を瞬間的にとらえて批評するデジタル型ではなく、時間軸の上を誘導しながら、その変化と発展の意味をとらえているのである。 (つづく) 

# by mako-oma | 2015-03-30 15:53 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

⑤昭和の大蔵大臣 (264)

齋藤隆夫代議士”2.26”で右翼化を糾弾
                    昭和59年10月27日
〈忍耐には限度がある〉
齋藤隆夫代議士は、日本人の中に外国思想の影響をうけやすい分子があることを指摘した。デモクラシーの思想がさかんになると、われもわれもとデモクラシー。ナチス、ファッショがおきると、これに走る。「思想上において国民的自主独立の見識のないことはお互いに戒めねばならぬことであります(拍手)」左傾といい、右傾という。進みいく道はちがうが、きするところは今日の国家組織、政治組織を破壊しようとするもの。ただ一つは「愛国」の名によって行い、他の一つは「無産大衆」の名によって行わんとしている。危険なことはおなじなのだ。斎藤は、軍部と結びつく政治家をもたたいた。「いやしくも立憲政治家たるものは、国民を背景として、正々堂々と民衆の前に立って、国家のために公明正大なるところの政治上の争いをなすべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てるごときは、立憲政治家として許すべからずことである。いわんや政治圏外にあるとことろの軍部の一角と通謀して自己の野心をとげんとするにいたっては、これは政治家の恥辱であり、堕落であり(拍手)またじつに卑怯千万のふるまいであるのである。」中国の兵法の六韜(りくとう)三略(さんりゃく)の中に、「怒るべきして怒らざれば奸臣起こる。倒すべくして倒さざれば大賊現る」とある。「私は全国民に代わって軍部当局者の一大英断を希望する者であります(拍手)」斎藤は最後に、この事件に対する「国民的感情」についてのべた。「今回の事件(注、2.26事件)に対しては、中央といわず、地方といわず、上下あらゆる階級を通じて衷心(ちゅうしん)非常に憤慨しております(拍手)」国民的尊敬の的であった高橋大蔵大臣、斎藤内府(内大臣)、渡辺(教育)総監のごとき、温厚篤実、身をもって国に許すところの陛下の重臣が、国を護るべき統帥権のもとにある軍人の銃剣によって虐殺せられるいたっては、軍を信頼する国民にとってはじつに苦痛なのである。「それにもかかわらず、彼等は今日の時勢、言論の自由が拘束(こうそく)せられておりますところの今日の時代において、公然これを口にすることはできない。わずかに私語の間にこれをもらし、あるいは目をもって告ぐるなど、専制武断の封建時代と何の変わるところがあるか(拍手)」「粛正選挙によって国民の総意は明らかに表白せられ(拍手)、これを基礎として政治を行うのが明治大帝の降(くだ)し賜いし立憲政治の大精神であるにもかかわらず(拍手)、一部の単独意思によって国民の総意が蹂躙(じゅうりん)せらるるがごとき形勢が見ゆるのは、はなはだ遺憾千万の至りにたえない(拍手)」それでも国民は沈黙し、政党も沈黙している。しかし人間は感情的動物。「国民の忍耐力には限りがあります。私は異日国民の忍耐力の尽きはつる時の来らないことを衷心希望するのであります(拍手)」   (つづく)



# by mako-oma | 2015-03-28 14:33 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)