台湾旅行2《台南》~2日目【10月1日(月)】

大億麗緻酒店(大億ランディスホテル)の朝食はメニュー豊富なブュッフェだった。まずは絶対お勧めという三品をとる。府城牛肉湯(Beef Soup 牛肉スープ)、?自魚粥(Milkfish Congee サバヒーかゆ)、擔仔麺(Dan Tsu Noodles ヌードル)。どれも伝統的な台湾料理のようだが、牛肉スープは、カップに生の牛肉を入れて、上からスープをかけるとたちまち牛肉の色が変わって、とても美味しいスープだった。特に美味しかったのは、サバヒー粥で、魚のお粥というので生臭いのではないかと思ったら、とんでもない!全然生臭くなく、しかも皮までとろけるような美味しさだった。その他にも、普通の白いお粥(Plain Congess)や、サツマイモの入ったお粥(Sweet Potato Congee)、それにトッピングのおかずが豊富にあり、もう朝から台湾料理を満喫してしまった。

9時にホテルを出発して、この日はまず烏山頭へ向かった。烏山頭ダムや八田與一紀念きね公園などを見学した。公園の一角には復元された八田與一居住家屋があった。
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その後、昼食は台湾郷土料理。デザートに皮がグリーンで実が白い果物がでてきて、「これなぁに?」ということで誰もわからなかったのだが、何とそれはグァバだった。グァバというと赤いジュースを思いだすが、種類のことなるグァバもあるそうだ。

午後は四草生体文化圏区を訪れた。ここは、台江内海が泥砂で塞がれ潟湖になったそうだ。皆ライフジャケットを身に着け、いかだのような乗り物に乗って、マングローブの緑のトンネルを抜けて行く。
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四草大衆廟は、1700年に皇帝令で建立された。オランダ軍と成功軍の戦死者を祀るため、主神は鎮海元帥で、鄭成功の勝利の副将だった。
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四草砲台は、1840年アヘン戦争が勃発し、英国軍の台湾島への侵攻を防ぐために各地海辺に防御砲台を築いた。
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四草大衆廟と四草砲台を見学した後、豆花というものを食べた。豆乳で作った豆腐プリンで、それぞれ好きなもの二種類を上にかけてもらうのだが、私は小豆と緑豆を選んだ。

この日の夕食は、遼東大飯店(シャングリアホテル)の38階にある広東料理のレストランというので期待していたのだが…。
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テーブルは、男性陣と女性陣に分かれていた。隣のテーブルの様子が何かおかしい。注文した台湾ビールがなかなか出て来ないというのである。こちらのテーブルではもうとっくにワインで乾杯したというのに…。一体どうなっているのか聞いたところ、ビックリするような返事がかえってきたのである。「冷えたビールがなかったので、買いに行っていた」というのである。そんなことがあるのだろうか?!そうこうするうちに、今度はこちらのテーブルでトラブル発生。前菜は、5種類ぐらいが一皿にのっていた。その中にカップに入ったオクラがあった。そこに、何やら動くものが!小さな虫である。すぐにスタッフを呼んで取り換えてくれるように頼んだ。ところが、持ってきたのはカップに入ったオクラだけ。他の4種はまだ手付かずだというのに…。高級ホテルでこんなことがあるのだろうか? 全く信じられない話である。

夕食後、流動夜市を散策した。たくさんの屋台が出ていて賑やかだった。
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そして、また専用バスに乗りホテルに戻った。こうしていろいろあった二日目は終わった。





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# by mako-oma | 2018-10-20 23:34 | 旅行 | Trackback | Comments(0)  

台湾旅行2《台南》~1日目【9月30日(日)】

3年前、主人の友人夫妻と一緒に台湾旅行をした。このグループの成立50周年並びにメンバーの何組かが結婚50周年を迎えるのを記念しての旅行だった。その時は台北だけであったが、父が昭和16年に記した「台湾旅行記」に載っている場所はくまなく訪れることが出来た。父が泊まった鉄道ホテルのあった場所には新光三越が建っていた。主人が仕事上絡んでいたので、ビックリした。

今回は再び同じメンバーでの台南旅行を一年前から計画してきたものだ。9月30日(日)から10月3日(水)までの三泊四日の旅行である。始めの予定では、8組16名でのツアーだったが、直前のキャンセルで13名になった。それでも団体ツアーとして専用車での移動、日本語堪能なガイドさん付きで、宿泊ホテルも広々とした快適なものだった。ガイドさんは前回と同じ曹さんにお願いした。

盲腸騒ぎが終わってから出発まで僅か4日間しかなかった。猛烈な勢力を持つ台風24号が、その力を弱めることなく日本列島直撃という予報が連日テレビから流れて来た。同時に体調の変化のないことを祈る4日間だった。何事もなく当日の朝を迎えたが、台風に追っかけられるような気分だった。6時半、家を出る時にはそれ程の雨は降っていなかったが、途中から空を見上げると黒い雲におおわれ、次第に雨の勢いは強くなっていった。離陸の際に大雨にならないようにと願った。羽田空港近くのパーキングに車をとめたのだが、ここは埋め立て地である。台風で車が流されてしまうのではないかと心配した。空港に着いてから朝食をとり、集合時間を待った。8時の集合時間になっても現れないご夫婦がいて心配したが、無事に13名全員がそろった。台風は私達の出発する日の午後に関東地方を直撃するということで、午前中に出る私達はギリギリセーフになるはずだった。ところがやはり台風の影響でフライトスケジュールは大幅に乱れているようだった。10:05の出発予定時刻を過ぎても機体はなかなか動き出さなかった。スタッフもバタバタしている様子だった。10:52、予定時刻をかなりオーバーしてようやく離陸した。飛行ルートを見ると、明らかに通常のルートとは異なるルートを飛んでいるようだった。恐らく台風の影響を避けるためだったのではないだろうか。そのお陰で、飛行時間も通常よりも長くかかり、約1時間遅れで台北松山空港に到着した。

ガイドの曹さんが我々を待っていてくれ、予定していた台湾新幹線には乗り損なってしまったことが告げられた。2階建ての大型バスに乗り、台北駅に移動した。何台か後の列車に乗ることになったが、改札口ではやはりトラブった。こんな時、ガイドさんは本当に頼りになる。無事に改札の中に入れたが、座席指定券は無効となり、席は自由席だという。幸い全員席を確保でき、台南までの2時間を座っていくことが出来た。日本と同様、列車には優先席が設けられていることがすぐにわかった。そこには、”博愛座”との表示があった。また電光掲示板には”目前時速為283公里”(時速283km)の表示も出た。台南到着後、専用車にて台南市内観光へと向かった。孔子廟へ着いたのは5時20分だった。5時半の閉館時間ギリギリだったが、曹さんの丁寧な説明を聞くことが出来た。ここは1665年に創建された台湾最古の孔子廟で、台湾における儒学の発祥の地であった。

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その後、赤崁楼へと向かった。ここは、台南市街地域で一番歴史の古い史跡で、1653年に台湾南部を占領したオランダ軍によって建てられ、プロビデンシャ城と呼ばれていた。鄭成功がオランダ人を追い出し行政庁舎になるが、1862年の大地震により全壊した。

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7時近くにようやく今夜の宿泊ホテル、台南大奥麗緻(大億ランディスホテル)に到着した。夕食はホテル内のレストラン「尚軒」にて、台湾海鮮料理をいただいた。薄味なのにしっかりダシが効いていて美味しかった。夕食後、更に台南市内観光の予定が入っていたが、皆この日は早朝に起きてフルに活動したので、お酒が入ったらもう寝るだけ、という状況になり、予定はキャンセルということになった。こうして台南旅行一日目は無事に終わった。

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# by mako-oma | 2018-10-05 11:09 | 旅行 | Trackback | Comments(0)  

虫垂炎

9月16日(日)深夜、突然の腹痛に目が覚め、シクシクでもキリキリでもなくお腹全体が痛み、その後は朝まで眠れなかった。朝になると痛みは右下に集中してきた。咄嗟に「これは盲腸!」と思った。父は若い頃盲腸から腹膜炎を併発し、生死の境をさまよい、お花畑を見たそうだ。それでもこちらの世界に戻って来た。娘は、スペインのコスタ・デル・ソルに到着早々お腹が痛いと言い出し、地元のドクターが診にきてくれたが、英語が全く話せない人で、差し出した英語の辞書で”盲腸炎”を指さした。そして、隣町に病院があるからそっちへ行ってくれと言った。隣町といっても地図にも載っていないような田舎町である。そもそもその旅行は私達が計画したものではなく、友人が行けなくなったというので、引き受けたものだった。だからどんなところなのかも余りわからずに来てしまった。「こんな田舎町で手術なんてことになったら大変!一刻も早くデュッセルドルフに帰らなければ。」という思いで帰りのフライトを探したが、安いチケットは週末に帰る便なんてない。仕方がないので、イベリア航空のノーマルチケットを手配した。私達は夜明け前の暗い道をマラガ空港に向かって車を走らせた。そのうちに太陽が昇ってきた。その間にも娘は苦しそうだった。飛行機に搭乗する際には、「何があっても責任は私達がとる」ということを約束させられた。そしてドイツに戻り、親しくしている日本人医師のもとに直行した。その結果、盲腸炎ではなかった。本当に良かった!
今でも思い出すとぞっとする。そんな訳で、私は盲腸炎と聞くと恐怖に襲われる。とにかく診てもらわなければと思い、東京医療センターの救急外来を受診した。休日の病院はひっそりしていた。しかし、救急外来の中には待っている人が沢山いた。かなり待たされようやく診てくれたのは若い呼吸器科の先生だった。血液検査に尿検査、レントゲン検査の結果、白血球の数値がかなり高く、炎症反応を示すCRPもかなり高い値を示していた。 その後点滴をされ、更に造影剤を注射してCTをとると言う。ちょっと待って!私造影剤ダメなんですが!いろいろあってその日は帰宅。翌日の月曜日は”敬老の日”。何事も起らないことを祈った。緊急入院ということになっても良いように入院準備は整えた。というのは、友人が突然入院することになった時、ご主人にバスタオルを持って来てもらうように頼んだところ、何と犬のバスタオルを持ってきた、という話を思い出したからである。翌連休明けにかかりつけのドクターのもとへ。そこで再度血液検査。白血球の数値は少し下がっていたが、CRPは逆に上がっていた。そして紹介状を書くので医療センターの消化器科に行くようにと指示された。翌日私は紹介状を持って再び医療センターに行った。受付で、「今日の先生は代行の先生で、普段は外来に出ていない先生なんですがいいですか?」と聞かれた。えっ~?いいですか?と言われても…嫌です、と言っても良いのだろうか?やはり若い男の先生だった。そして三度目の血液検査。結果は白血球は正常範囲に、CRPは下がってはいたが、まだ正常範囲にはなっていなかった。たまたまその二日後に医療センターで腹部超音波の検査が入っていたので、一緒に盲腸のところも診てもらうことになった。その結果と再度の血液検査をするために翌週再び来るように言われた。そして結果を聞きに行った。今度は信頼出来そうな女の先生だった。再度の血液検査の結果は正常範囲に戻っていた。結論としては、軽い虫垂炎だったようだ。その週の週末には台湾旅行が控えていたので、抗生物質と鎮痛剤が処方された。こうして10日間の盲腸騒ぎは終わった。日本列島には猛烈な勢力を持つ台風24号が近づいていた。

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# by mako-oma | 2018-10-04 20:47 | 健康 | Trackback | Comments(0)  

古稀を祝う会

気が付いたら今年も余すところあと三か月になってしまいました。振り返ってみると、4月に中学の5クラス合同の「古稀の祝い」、9月に高校の3クラス合同の「古稀の祝い」、そしてその2週間後にちょうどシカゴから来ていたクラスメートを囲んで小学校の「古稀クラス会」をやりました。私はそのいずれにおいても幹事でした。私自身は3月生まれですので、まだ70歳ではありません。中学の同期会はこれまでにも何回か開かれ、参加者は全員中学時代の顔写真つきの名札をつけ、過ぎ去った年月の長さを感じました。高校の同期会はこれまで一度も開かれたことはありませんでした。昨年、高校卒業50周年の記念すべき年だったのですが、何事もなく過ぎてしまいました。そこで、ちょうど一年前友人と相談して「古稀の祝い」を開くことにしました。まず各クラスのクラス委員にお話したところ、皆さん賛同してくださいました。そして、各クラス3名の実行委員をお願いし、合計12名の幹事で一年間準備してきました。ご案内状を出した人数の半数以上の方が出席してくださいました。そしてその9割の方が二次会にも参加してくださいました。全員で70名以上の集合写真が撮れるかどうか心配しましたが、最近のスマホはスゴイですね。全く問題なくきれいに撮れました。それをメールに添付して皆様にお送りしました。最後までうまく送れなかった名簿の一番最初のAちゃんと一番最後のY子。Aちゃんは最近スマホにしたばかりでまだ使いこなしていない様子。Y子はパソコンは全然使っていないようで、近々ガラケイをスマホに変えるとのこと。全員のアドレスを入力し、Y子を除く皆さんには全員の集合写真と各クラスごとの写真3枚、そして写真が趣味の友人から届いたスナップ写真をアルバムにしたものをお送り出来ました。初めて開いた同期会でしたが、皆様に楽しんでいただけたようで、何よりと思っています。そして、最後は小学校の古稀クラス会でした。こちらも20名参加の盛会でした。もともとは48名でしたが、クラス委員だった3名を含み7名が既に亡くなっているので現在は41名です。シカゴの彼は、高校卒業後アメリカにわたり、MITを卒業後ずっとアメリカで仕事をしてきたので、日本に帰るのではなく、日本に来るのです。前回彼が日本に来たのは4年前です。その時は、日にちが余りなかったことやいろいろあって声をかけて集まったのはたったの3人でした。私ともう一人の幹事、それに彼を入れて6名。これまでいろいろ幹事をやってきましたが、こんなことは初めてでした。そこで、私は考えました。「そうだ、今まで一度もクラス会に出てきたことがない人に声をかけてみよう!」そして二人のクラスメートに電話しました。二人とも喜んで来てくれました。8名だけのクラス会でしたが、とても良い会でした。それ以来4年間クラス会は開かれず、その間に二人のクラスメートが天国に旅立ちました。二人ともクラスでは目立つ存在でした。一人は、音楽プロデューサーとして業界ではその名の知れた人でした。彼のご葬儀の際には受付のお手伝いをしましたが、多くの芸能関係の方が来られました。またもう一人は、プロ並みのゴルフの腕前でしたが、突然沖縄に移住してしまい、私達の前から姿を消しました。そのわずか一年二か月後、奥様も全く予想しなかったと言われましたが、彼は奥様の腕の中で亡くなりました。その二人が欠けてしまったことは本当に寂しいです。人生100年時代と言われますが、70歳の壁は高いです。
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# by mako-oma | 2018-09-26 21:16 | 交流 | Trackback | Comments(0)  

歴史学者 磯田道史氏が涙した古文書

昨年11月22日(水)TBSテレビで「1番だけが知っている 魂震えるスゴイ日本人」という番組が放映されました。この中で「武士の家計簿」などで知られる歴史学者の磯田道史さんが、一枚の色紙との出会いを語られました。「大戦直前…たった一人で戦争を止めようとした男がいた」彼の魂を最も震わせた古文書とは…それは今から20年ほど前、当時大学院生だった磯田さんは露店の骨董市をのぞくのが趣味だったそうです。そこに、すごく変わった格好の骨董屋さんがパイプ椅子に座って物を売っていました。真っ黒なイギリス紳士のような帽子をかぶり、黒いマントのようなものを着て、ひげを生やした立派な顔つきの人だったようです。まるで大正時代からタイムスリップしてきたような露天商に吸い寄せられるように近づくと、段ボール箱の中には500円均一の色紙が何枚も入っていました。その中の一枚になぜか心惹かれ買って帰ったそうです。
そこには、「第75帝国議会 去っての感想『去感』」と書かれていました。

この色紙を書いたのは「斎藤隆夫」という政治家だということがわかり、斎藤隆夫とは一体どのような人物なのかを調べました。太平洋戦争に突入するきっかけとなった真珠湾攻撃の一年前、その頃の日本は軍部が暴走、政治にも介入し、議会を牛耳ろうとしていました。政府の要人たちが青年将校によって暗殺された226事件が起きる中、斎藤は危険を顧みず軍部を徹底批判した本「軍部に告ぐ」を出版しました。戦争へ突き進もうとする日本を何とか止めようとしていました。しかし軍部を真っ向から批判して、斎藤は護衛という名目で軍に四六時中監視される生活がはじまりました。昭和12年(1937年)支那事変(日中戦争)勃発。斎藤の力だけではどうすることも出来ず戦争へ突き進んで行く日本。その犠牲となるのは国民でした。戦死者は6万人を越え、国民は疲弊していました。更に議会の承認なくして国民を戦争に動員できる国家総動員法が昭和13年(1938年)成立してしまいます。兵士を送っても送っても解決がつかない状況になり戦死者が増えていく。庶民の負担は増すばかり。日中戦争で疲弊している国民を何とか救わねばならない。

そして昭和15年(1940年)2月2日、運命の第75帝国議会が開かれました。国民の声を届けるために斎藤はたちあがりました。当時の大臣は国家主義者で固められ、軍部の思いのままに動く政府、批判すれば殺されるかもしれない中で、斎藤は国民を守るため決死の行動に出ます。

番組では実際の音源も放映されました。「一体支那事変はどうなるものであるか?いつ済むのであるか?いつまで続くものであるのか?我々が支那事変の処理を考えうるにあたりましては、寸時も忘れてはならぬものがあるのであります。それは何であるか。他のことではない。二年有半の長きにわたって我が国家国民が払いたるところの絶大なる犠牲であるのであります。」戦争の犠牲になるのは国民。そして斎藤は日本の未来を守るために禁忌の言葉を国家につきつけます。「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤まるようなことがありましたならば、これは現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。」

太平洋戦争の一年前、斎藤は決死の覚悟で日本の未来を案じていました。斎藤のこの発言は問題視され、議長により議事録から削除されてしまいます。演説の三分の二が抹消されました。そして斎藤は聖戦を冒瀆したとして懲罰委員会にかけられ最も思い議員除名処分となります。斎藤の自宅には脅迫を意味する短刀が送りつけられました。「自分は一言も間違ったことは言っていない。」そして一詩を作りました。自分はこのまま殺され歴史に埋もれてしまうかもしれない。磯田さんが手にした色紙は決死の思いで書かれたものだったのです。

吾が言は即ち是れ万人の声
褒貶毀誉は世評に委す
請う百年青史の上を看ることを
正邪曲直自ずから分明

私の言ったことは国民の声である
ほめられるかけなされるかは世間に委ねるが
百年後の歴史をみて欲しい
正しいか間違っているかはおのずと明らかになる

磯田さんが最も魂が震えた一文は三行目。「百年後の歴史をみて欲しい」この色紙が書かれてからもうすぐ80年。偶然出会ったこの色紙。磯田さんは自分に託された斎藤からのメッセージだと感じたそうです。「後で多分評価してくれる、と委ねてくれている。歴史家が信用されている。これには非情に感動して泣きました。」と言われています。そんな貴重な色紙を500円で買ってしまった磯田さんは再び露天商の元を訪れその色紙を返そうとしましたが、露天商の口から出た言葉は、「この色紙はあなたの元に行く運命だったんだ」というものでした。本当に磯田さんの元にわたる運命だったんだと思います。歴史学者としての磯田さんの使命感に心をうたれました。磯田さんによって斎藤隆夫の名前が広く知られるようになればそれは嬉しいことです。私は孫としての使命感からこのブログを立ち上げました。

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# by mako-oma | 2018-02-06 16:57 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)