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新編戦後政治 41 女性たちが語る  三木睦子さん〈2〉

斎藤氏の反軍演説傍聴 政治テスト?武夫氏に誘われて
                    
1992年(平成4年)1月12日  毎日新聞 編集委員 岩見隆夫

総理の片山哲さんは品よくおっとりしていらした。口数は少ないのですけれど、内に秘めたものがたっぷりあるような、たいへん知識の豊富な、だけどひけらかさないというか、感じとしては井出一太郎さんみたいなね。
西尾夫人に敬意 
それから、西尾末広夫人に私は大変敬意をもっていました。経歴を聞いてみると、西尾さんと同じように働いていらした方で、苦労もされたというんですけれども、立派な信頼できる人だと思ってましたよ。まあ地味な格好はしてらっしゃいましたけど。ちょくちょくお目にかかってました。占領下ですから、そんなに派手な行き来するようなことはなかったんですけど。片山内閣には国務大臣に斎藤隆夫さん〈当時、民主党最高顧問)がいらっしゃいましてね。この方はどっちかというと体の大きくない方でしたけれども、私は戦争がはじまる前の国会での演説の時にお目にかかった。お目にかかったというより、母が三木に誘われて、私はただお添えもので、「ついておいで」と母が言うから、くっついていったんです。彼は議員ですから、傍聴券を2枚ずつもらえる、それを母に渡したものですから、私たちは傍聴席からのぞいて、三木は議場を出たり入ったりしてました。遠くから見ているだけですけど。それでも毎日、斎藤さんのことは新聞に記事が出てますからね。こっちが顔、姿をしっていました。三木と結婚する数年前です。〈斎藤隆夫をおいて議会演説を語ることはできない。戦前、斎藤は再三、壇上から軍部に挑戦した。歴史に残るのはまず2・26事件直後、1936〈昭和11)年5月の粛軍演説。軍部の乱れを一刀両断した。翌朝の『東京日日』(いまの『毎日』には、「斎藤氏熱火の大論陣 国民の総意を代表し 軍部に一大英断要望」の大見出しが躍った。ついで、1940(昭和15)年2月、日中戦争が4年目に入った大戦前夜にも斎藤は反軍演説に立つ。「いたずらに聖戦の美名に隠れて・・・」ではじまる有名な熱弁。拍手なりやまずだったが、軍部は怒り狂い、議会は斎藤を除名処分にした。睦子夫人が傍聴したのは、その間の1937,8年ごろの演説と思われる〉 その時にね、母は大変皮膚の弱い人だったもんですから、ニスでかぶれちゃったんです。いまの議事堂ができたばかりで、ニスも新しく、母は傍聴席の前に身を乗り出して議場を一生懸命のぞいたりしましたからね。それで、目が開けられなくなって、大騒動です。沢蟹(さわがに)を生のままたたいてつぶした汁をつければ治るとかいって、いろんなことをやったんですけれど、「かゆい、かゆい」と幾日も夜通し騒ぎましてね。伊豆だか熱海だか、温泉が効くということで、私も一緒に行ったんです。そこへ、武夫が見舞いにやってきました。病気のもとを作ったというんで。〈長女、高橋紀世子の証言。「父が議員在職50年の表彰を受けた時に、衆議院議長室の原健三郎さんの所に表彰状をいただきに母と伺ったんです。父は入院してましたから。それで傍聴席に入ったんですが、常日ごろ母は国会には行きたがらなかったのですから、私の記憶になかったので『ママ、はじめてでしょう』と聞いたところ『50年前ごろ一度だけ』と言うんです。それで、斎藤さんの反軍演説を聞いたことをはじめて知りました。『母親に言われて』と祖母のせいにしてますが、父としては母を誘ったんじゃないか、初デートだったのだろうと私は思うんですけれど・・・。でも、ちょっといい話だと思いました。実業をしていた母の里、森の家に強い反戦ムードがあったとは思えない。だから、父は母に、斎藤演説を聞かせることによって、自分の思想というんですか、自分の考えをわかってもらえるかどうか、テストしてみたのではないかと思うんです。病床の父に、そんな私の想像を話してみたことがあるんですが、まんざらうそではないという顔をしていました。照れましたから」〉… 後略

by mako-oma | 2015-05-08 20:40 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

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