タグ:斎藤隆夫 ( 39 ) タグの人気記事

 

齋藤隆夫にみる真の政治家(4)~粛軍演説~

昭和11年5月、2・26事件による戒厳令下の緊張のもと、第69特別議会が召集された。齋藤隆夫は、7日の衆議院本会議壇上に立ち、自他ともに認める三大演説の一つ『粛軍演説』を行った。概要は、次のとおりである。広田内閣の説く革新政治の具体的内容、ならびに外交と国防政策の問題点を鋭く追及するとともに、その後半では、2・26事件の原因と軍当局の態度を論難。斎藤は、軍部大臣に対し、明治天皇の『軍人勅諭』と伊藤博文の『憲法義解』をひきながら、軍人の政治不関与の原則を糾した。自ら公判を傍聴した5・15事件については、青年将校の議論の単純さと、これを扇動する陰謀家の無責任さを突き、軍人被告が軽い量刑ですんだ軍法会議の政治性を批判した。さらに「3月事件に対する軍部の態度が10月事件をよび、10月事件に対する軍部の態度が5・15事件をよび、5・15事件に対する軍部の態度が実に今回の一大不祥事件を起こした」と軍部にせまる。日本の国家組織は「立憲軍主制」として進むほかないのであるとして、「政治圏外にあるところの軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとする」政治家の堕落をついた。そして最後に、今回の事件についてはあらゆる階級が憤慨しているのに、言論の自由の拘束によって、これを公然と口に出来ない状態にあることを指摘し、「国民の忍耐力には限りがあります」と警告している。この昭和11年の日本には、いいことがひとつもない。簡単に説明すると、金輸出解禁の失敗による恐慌と、国内経済の疲弊、政党政治の腐敗、ドル買い事件などによって、かつてないほどに増した、国民の政党・財閥に対する不信感。ロンドン海軍軍縮条約に調印したはいいが浜口首相が反対派・右翼の青年に狙撃されて死亡。協調外交路線はゆきづまる。満州事変および満州国の建国による、日本の孤立。政党政治を直接行動で打倒して、軍事的な独裁体制を樹立しょうとする国家改造路線による三月事件、十月事件、5・15事件、そして2・26事件と相次ぐテロ事件。外交も内政も行きつくところまで来ている。これ以上、優柔不断な政治は許されない。  (つづく)
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by mako-oma | 2017-05-25 22:59 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(2)~斎藤隆夫という人~

明治3年(1870年)兵庫県但馬郡出石に生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、弁護士となり、渡米してエール大学に学ぶ。1914年以降、衆議院議員当選13回。2・26事件直後の臨時国会で粛軍演説を行い、また昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)に関する質問演説を行って大陸政策を批判し、そのため議員を除名される。戦後は第一次吉田内閣、片山内閣の国務大臣となる。昭和24年(1949年)10月死去、79歳。

五尺そこそこの小男。若いときアメリカで結核にかかり、肋骨を7本も取る大手術をした。そのため、身体が右後方によじれていて、それが演説するときの独特のポーズになっている。斎藤は、それが癖の、首をフラフラと振りながら、議会の壇上に立つ。演説原稿というものはかつて持ったことがない。演説の数日前に草稿を完成し、庭を散歩しながら暗唱するのである。彼は、原稿と首っぴきの政治家を「何たる醜態か、自分のものになっていないものをよく口にできるものだ。」と軽蔑している。登壇した斎藤をとらえた、ある雑誌の記事には、次のように書かれている。「およそ風采の振わないといってこれくらい振るわないのも珍しい。形容枯槁、これ以上痩せようはないという顔つきで、天下の不景気を一人で背負っているかのようだ。しかも一度口を開けば、さすがに千軍万馬の名将、提げて起つは得意の憲法論、満場うならざるをえない。」ところが、議事壇上から降りるや否や無類の話し下手になる。親分子分をつくらない。資金活動をしない。選挙区のために働かない。酒もたばこもやらず、宴会では居眠りばかりしている。それでいて、当時の政界にこれくらい存在感のある政治家はいなかったという。  (つづく)

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by mako-oma | 2017-05-22 20:34 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(1)

これは、1993年(平成5年)一人の女子高生の書いたレポートから抜粋したものです。
『政治が乱れて国民の不信感が強まるたびに、にわかに脚光を浴びる一人の政治家がいる。「政党および代議士に対しては、常に監督の責任を忘れてはならない。これが国民の政治道徳である」とは、彼の言葉である。新聞や雑誌のどこかに、「彼を見習え」だの「真の政治家」だの、そういった言葉を見つけるとき、たいてい日本の政治はひどい状態にある。代議士・斎藤隆夫。彼について、知りたいと思った。政権政党に属しながら派閥政治を好まず、とりわけ軍人の政治介入を批判、「言うべきことを言う」政治家として潔く生涯を貫いた人である。「政治家は1本のろうそくたれ」と言い、自分の身を焼き尽くしてでも、世の中を照らし、明るくしなければならない、と説いた。79歳で世を去って44年、その数々の語録は、今日の政治を指摘しているようにみえる。彼の活躍した時代は主に、現在のアジア諸国による対日警戒感を生み出した、軍部全盛の時代である。もちろん今とは大きく違う。制度上は自由が保障され、「軍部」に匹敵する巨大な権力もない現代の日本では、自分の命をも顧みずに言論を吐く、そんな悲壮感など必要ではない。しかし、だからこそ今、言論は紙風船のように軽くなっていく。後年、今の時代を的確に語った演説が、議会の速記録から発見されることはまずないだろう。今から半世紀あまり昔、こんな一人の政治家がいた。現代と比較しながら、その実態をさぐってみたい。   (つづく)

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by mako-oma | 2017-05-17 21:57 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

1940年という年

またもや北朝鮮がミサイルを打ち上げました。今回は成功したようです。 何を考えているのでしょうか。不気味です。先日のTBS報道特集を見ていてキャスターの「今の状況は1940年の頃ととても良く似ている。」という発言に思わずドキッとしました。1940年というのは昭和15年、斎藤隆夫が2月2日に「「支那事変処理に関する質問演説」をした年です。この演説が聖戦を冒瀆するものだとして、議長により演説後段の三分の二を議会速記録から削除されました。斎藤は懲罰委員会にかけられ、3月7日の本会議で、出席者303名のうち賛成296票で除名が可決されました。反対票を投じたのは、政友会久原派の芦田均、牧野良三、名川侃市、宮脇長吉、丸山弁三郎の五氏、民政党の岡崎久次郎氏、第一議員倶楽部の北浦圭太郎氏のわずか7名だけでした。斎藤を擁護する者の多くは、欠席または棄権144票の中に含まれていました。
斎藤除名直後の1940年3月10日、社会大衆党は、採決に欠席した片山哲、西尾末広ら8人を除名するなどして党分裂に至ります。政友会久原派、民政党でも反対・欠席者の処分を巡って混乱しました。一方、斎藤除名を積極的に推進した各党有志代表百余人は3月25日、聖戦貫徹議員連盟を結成しました。6月に近衛文麿が一国一党の強力な指導体制の確立をもくろんで新体制運動を掲げると、その夏各党は一斉に解党し、10月に発足した大政翼賛会に組み込まれていきます。帝国議会開設50周年のこの年、議会から政党が亡くなりました。議会政治を自ら否定した政党はここに崩壊し、本格的な戦時指導体制を確立した日本は翌年太平洋戦争へと突入していきます。

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by mako-oma | 2017-05-14 13:17 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

新聞記事掲載終了

これまで斎藤隆夫に関連する新聞記事を掲載してまいりましたが、残念ながら諸事情により終了することとなりました。
一番皆様に読んでいただきたかった二つの記事を掲載できなかったことは、本当に残念です。両紙ともほぼ新聞一面の大きさで、大きく取り上げられています。一つは1998年8月31日(月)読売新聞朝刊の《20世紀 どんな時代だったのかー昭和15年2月 斎藤隆夫の「反軍演説」》。 もう一つは2013年11月2日(土)同じ読売新聞朝刊の《昭和時代 第3部 戦前・戦中期(1926~44年)第35回-「言論」から「翼賛」の府へ》です。20年以上前、長女が高校3年の時、「斎藤隆夫にみる真の政治家」という卒業レポートを製作しました。その際、一緒に国会図書館に行き、昭和初期の古い新聞記事を多数閲覧し、コピーしたことを思いだしました。今はデジタルでも閲覧可能かもしれません。ご興味のある方はどうぞご覧いただければと思います。今後はまた別の形で「斎藤隆夫」を知っていただくことを考えたいと思います。このブログは引き続きますので、これからは音楽のこと、アンティークのこと、その他もろもろ書きたいと思ったことを載せていこうと思っています。これからも
どうぞよろしくお願いいたします。


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by mako-oma | 2015-09-09 13:46 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

あしたのニュース(フジTV)

7月7日(火)23:30からの「あしたのニュース(フジTV)」で斎藤隆夫が取り上げられました。「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」という戦後70年、シリーズ企画の初日で、短い時間ではありましたが、斎藤隆夫の存在、そしてその演説の持つ意味を視聴者の方々に知っていただけたのではないかと思います。25分番組にもかかわらず、はるばる出石までキャスターとディレクターの方々が取材に行かれました。私にも取材のお話しがありましたが、遠慮させていただきました。こういう番組を通して、斎藤隆夫の名前を知っていただけることは、”斎藤隆夫を知ってもらう会”代表の私といたしましては、この上なく嬉しいことと思っております。今後このようなことがありましたならば、会員の方々には事前に放映日等詳細をお知らせしたいと思いますので、ぜひ会員になっていただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。






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by mako-oma | 2015-07-09 20:38 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫を知ってもらう会

しばらくお休みしてしまいました。この間にも「マクーマの部屋」を訪れてくださった方々、ありがとうございます。せっかくいらしていただいたのに、ブログ更新されておらずにごめんなさい!

このたび「斎藤隆夫を知ってもらう会」を立ち上げました。

昨年12月4日、NHKBSプレミアムの「英雄たちの選択」という番組で、祖父斎藤隆夫が取り上げられました。「開戦前夜!政治家斎藤隆夫の挑戦~命をかけた名演説~」というものでした。 その後多くの方々から、「感動した!」「こんなにも気骨な政治家がいたなんてちっとも知らなかった」「言論統制されているあの時代に、命がけで国民が知りたいこと、聞きたいことを言ってくれた政治家がいたなんて、本当にすごい!」「もっと多くの人に知ってもらうべきだ」等々のお言葉をいただき、反響の大きさに大変嬉しく思っております。番組はその後、再放送され、更に4月に再々放送もされました。
戦後70年の節目の今年、両親の友人・知人から送られてきた斎藤隆夫に関連する新聞記事を皆様にご覧いただきたく、ブログを開設し半年近くが経とうとしておりますが、手元の新聞記事も残り少なくなってまいりました。国会での安全保障関連法案がどうなるのか、気になるところですが、現役国会議員の大半は戦争を知らない世代ということです。いくら法律で決められていることでも、時の権力の意向により、いかようにでもなるという歴史の事実を忘れてはいけないと思います。

斎藤隆夫が粛軍演説の中でいっています。
http://makooma.exblog.jp/21029685/
http://makooma.exblog.jp/21034920/


両親の死後、新聞記事は集まらなくなりましたが、先日は朝日新聞でかなり大きく取り上げられました。6月6日の夕刊です。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11795640.html
同じ6月6日(日)の朝刊 be のフロントランナーで歴史学者の磯田道史さんは、『「政府軍部の進める大陸政策はおかしい」と1940年2月に国会で演説し、除名された衆院議員の斎藤隆夫。こうした勇気と品格のある人の発掘も、続けていきたいです。』と言われています。
斎藤隆夫を直接知っている記者の方も、もうほとんどいらっしゃらないのではないかと思いますが、今年になってからでも1月3日の毎日新聞・余禄や、4月22日の社説等で斎藤隆夫の名前が出てきます。あいにく我が家でとっている新聞は日本経済新聞なので、その他の新聞に載っていてもわかりません。そこで広く皆様に会員になっていただき、ご協力をお願いしたいと思いました。斎藤隆夫に関連する新聞記事がありましたら、ぜひご連絡いただきたいとおもいます。会員になってくださった方々には憲政記念館等での催事、ブログ更新のお知らせ等させていただきたいと思います。ご協力いただける方はぜひご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。





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by mako-oma | 2015-07-01 21:56 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

問われるべきは「政治の質」

点評               
     1992年 日付不明 新聞社不明

粟屋憲太郎立教大教授の「昭和の政党」(小学館)は、「粛群演説」などで、議会史にさん然とした地位を占めている民政党の斎藤隆夫衆院議員の活躍を冒頭に取り上げることで、軍国主義の風潮に流されていった戦前の議会人の姿を描いている。
斎藤は、政党もマスコミも軍部批判を自粛するようになった1930年代後半も節を曲げず、40年2月の「反軍演説」で除名される。しかし、斎藤を除名した議会は結局、翼賛政治への道を転がり落ちていった。この本で、特に感動的なのは粟屋教授が斎藤の選挙区、兵庫県但馬地方を歩いたフィールド・ノートを元に齋藤と支持者の関係を描いているくだりだ。斎藤の選挙はすべて法定費用内でまかなわれ、普段の政治活動は年一、二回選挙区に帰り演説会を開くだけだった。演説会といえば今も変わらぬ地元への利益誘導的内容が多かった中で、斎藤は自分の政見に熱弁を振るい、演説に感動した支持者は手弁当で斎藤のために走り回った。除名の二年後、激しい選挙干渉にもかかわらす斎藤が議会に再帰できたのは、政治信条で結び付いた支持者たちがいたためだ。同著には斎藤の政治資金の内訳は紹介されていない。が、政治姿勢、権力・右翼の干渉を考えると、資金面でも清廉でつましかったことがうかがえる。このほど自民党の「政治改革を実現する会」が発表した衆参国会議員29人の昨年一年間の政治活動集資金によると、一人平均1億3378万円のカネが出入りしたという。巨額の資金調達の方法、収支の透明性も問題だが、同時に問わなければならないのは何を「政治活動」と見るかだ。支出の36%は秘書などの人件費で、活動費30%のうちの政策活動費は9%だけ。残りは後援会活動費と冠婚葬祭費だという。そこには飲食、旅行など派手な後援会活動と、後援会の面倒を見たり、カネ集めに奔走する大勢の秘書陣の姿が浮かび上がってくる。政治活動の規制は論外だが、その質にも目を向けなければならないだろう。供応まがいの活動を支えるために、献金、パーティー、派閥から年間1億円前後の資金を調達しなければならないとしたら、議員はまず”資金源”の顔色を見るようになる。「見返りのない献金をすれば背任。見返りのある献金は贈賄」といわれるが、同会の発表した収支からはカネが議員を毒している構造が見える。議員はカネ集めの理由にカネのかかる選挙をあげ、近く国会に提案される政治資金規正法改正案でも企業・団体献金の抜本見直しは見送られる。しかし、斎藤のように政治信念で有権者をつなぎ留められない不足分をカネで補うことが当然視されてはならない。「政治活動」を問うとき、斎藤は今なお一つの手本を示している。(原文通り)



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by mako-oma | 2015-05-16 08:49 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

交友抄 東北のぬくもり

 1992年(平成4年)3月4日 日本経済新聞  矢島欽次

墨絵のような空から今にも降ってきそうな日であった。「やあ、どうも遅くなりまして」と言いつつ、草柳大蔵さんが入って来られた。その瞬間、対談のための部屋は、パァッと明るくなったような気がした。草柳スマイルのなせるわざであろうか。これは、仙台放送の毎日曜午前10時から始まる「ごきげんよう草柳です」のテレビ出演時の光景である。この番組は、始まってからかれこれ、20年、現在も続いている。東北6県と新潟県だけにしか放映されていないのが残念だ。草柳さんはこの番組に毎回、工夫をくらしている。対談中は一切CMを入れないとか、四季折々の詩歌を冒頭に掲げて季節のこころを序章とする。私は出演のたびに草柳さんの番組に対する繊細な心くばりに驚いている。草柳さんとの交友は何十年にも及ぶ。あうんの呼吸というか、リズムがよほど合うのであろう。そもそも草柳さんと私との出会いには、東北電力副社長の小林智夫さんが仲人役の任に当たった。3人そろい踏みをすると話は尽きない。確か草柳さんと晩秋の東北路を旅していたときだと記憶している。前の晩、国政の乱れを憂えていた草柳さんに、文才のない私になり代わって斎藤隆夫伝なるものを書いていただきたい、もう斎藤隆夫のことを知る日本人はほとんどいないではないかと懇請した。戦時中、軍部がわが世を謳歌していたとき、文には文の職分あり、軍には軍の職分がある、されば軍は軍の職分に専念し、政治に口出しするなという「粛軍演説」を国会で堂々とブチ上げた男がいた。それが斎藤隆夫である。今の自衛隊論議とはまったく関係ない。草柳さんは黙して語られなかったが、その後、私の期待する以上の傑作「斎藤隆夫かく戦えり」(文芸春秋)なる立派な書を公刊された。草柳さん、小林智夫さんは私の心の友である。東北は吹雪の中でも温かい。人情の古里であり、傑作を発酵させる場でもあるから。(やじま・きんじ=青山学院大学教授)




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by mako-oma | 2015-05-11 22:49 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

新編戦後政治 41 女性たちが語る  三木睦子さん〈2〉

斎藤氏の反軍演説傍聴 政治テスト?武夫氏に誘われて
                    
1992年(平成4年)1月12日  毎日新聞 編集委員 岩見隆夫

総理の片山哲さんは品よくおっとりしていらした。口数は少ないのですけれど、内に秘めたものがたっぷりあるような、たいへん知識の豊富な、だけどひけらかさないというか、感じとしては井出一太郎さんみたいなね。
西尾夫人に敬意 
それから、西尾末広夫人に私は大変敬意をもっていました。経歴を聞いてみると、西尾さんと同じように働いていらした方で、苦労もされたというんですけれども、立派な信頼できる人だと思ってましたよ。まあ地味な格好はしてらっしゃいましたけど。ちょくちょくお目にかかってました。占領下ですから、そんなに派手な行き来するようなことはなかったんですけど。片山内閣には国務大臣に斎藤隆夫さん〈当時、民主党最高顧問)がいらっしゃいましてね。この方はどっちかというと体の大きくない方でしたけれども、私は戦争がはじまる前の国会での演説の時にお目にかかった。お目にかかったというより、母が三木に誘われて、私はただお添えもので、「ついておいで」と母が言うから、くっついていったんです。彼は議員ですから、傍聴券を2枚ずつもらえる、それを母に渡したものですから、私たちは傍聴席からのぞいて、三木は議場を出たり入ったりしてました。遠くから見ているだけですけど。それでも毎日、斎藤さんのことは新聞に記事が出てますからね。こっちが顔、姿をしっていました。三木と結婚する数年前です。〈斎藤隆夫をおいて議会演説を語ることはできない。戦前、斎藤は再三、壇上から軍部に挑戦した。歴史に残るのはまず2・26事件直後、1936〈昭和11)年5月の粛軍演説。軍部の乱れを一刀両断した。翌朝の『東京日日』(いまの『毎日』には、「斎藤氏熱火の大論陣 国民の総意を代表し 軍部に一大英断要望」の大見出しが躍った。ついで、1940(昭和15)年2月、日中戦争が4年目に入った大戦前夜にも斎藤は反軍演説に立つ。「いたずらに聖戦の美名に隠れて・・・」ではじまる有名な熱弁。拍手なりやまずだったが、軍部は怒り狂い、議会は斎藤を除名処分にした。睦子夫人が傍聴したのは、その間の1937,8年ごろの演説と思われる〉 その時にね、母は大変皮膚の弱い人だったもんですから、ニスでかぶれちゃったんです。いまの議事堂ができたばかりで、ニスも新しく、母は傍聴席の前に身を乗り出して議場を一生懸命のぞいたりしましたからね。それで、目が開けられなくなって、大騒動です。沢蟹(さわがに)を生のままたたいてつぶした汁をつければ治るとかいって、いろんなことをやったんですけれど、「かゆい、かゆい」と幾日も夜通し騒ぎましてね。伊豆だか熱海だか、温泉が効くということで、私も一緒に行ったんです。そこへ、武夫が見舞いにやってきました。病気のもとを作ったというんで。〈長女、高橋紀世子の証言。「父が議員在職50年の表彰を受けた時に、衆議院議長室の原健三郎さんの所に表彰状をいただきに母と伺ったんです。父は入院してましたから。それで傍聴席に入ったんですが、常日ごろ母は国会には行きたがらなかったのですから、私の記憶になかったので『ママ、はじめてでしょう』と聞いたところ『50年前ごろ一度だけ』と言うんです。それで、斎藤さんの反軍演説を聞いたことをはじめて知りました。『母親に言われて』と祖母のせいにしてますが、父としては母を誘ったんじゃないか、初デートだったのだろうと私は思うんですけれど・・・。でも、ちょっといい話だと思いました。実業をしていた母の里、森の家に強い反戦ムードがあったとは思えない。だから、父は母に、斎藤演説を聞かせることによって、自分の思想というんですか、自分の考えをわかってもらえるかどうか、テストしてみたのではないかと思うんです。病床の父に、そんな私の想像を話してみたことがあるんですが、まんざらうそではないという顔をしていました。照れましたから」〉… 後略

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by mako-oma | 2015-05-08 20:40 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)