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タグ:斎藤隆夫 ( 35 ) タグの人気記事

 

新聞記事掲載終了

これまで斎藤隆夫に関連する新聞記事を掲載してまいりましたが、残念ながら諸事情により終了することとなりました。
一番皆様に読んでいただきたかった二つの記事を掲載できなかったことは、本当に残念です。両紙ともほぼ新聞一面の大きさで、大きく取り上げられています。一つは1998年8月31日(月)読売新聞朝刊の《20世紀 どんな時代だったのかー昭和15年2月 斎藤隆夫の「反軍演説」》。 もう一つは2013年11月2日(土)同じ読売新聞朝刊の《昭和時代 第3部 戦前・戦中期(1926~44年)第35回-「言論」から「翼賛」の府へ》です。20年以上前、長女が高校3年の時、「斎藤隆夫にみる真の政治家」という卒業レポートを製作しました。その際、一緒に国会図書館に行き、昭和初期の古い新聞記事を多数閲覧し、コピーしたことを思いだしました。今はデジタルでも閲覧可能かもしれません。ご興味のある方はどうぞご覧いただければと思います。今後はまた別の形で「斎藤隆夫」を知っていただくことを考えたいと思います。このブログは引き続きますので、これからは音楽のこと、アンティークのこと、その他もろもろ書きたいと思ったことを載せていこうと思っています。これからも
どうぞよろしくお願いいたします。


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by mako-oma | 2015-09-09 13:46 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

あしたのニュース(フジTV)

7月7日(火)23:30からの「あしたのニュース(フジTV)」で斎藤隆夫が取り上げられました。「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」という戦後70年、シリーズ企画の初日で、短い時間ではありましたが、斎藤隆夫の存在、そしてその演説の持つ意味を視聴者の方々に知っていただけたのではないかと思います。25分番組にもかかわらず、はるばる出石までキャスターとディレクターの方々が取材に行かれました。私にも取材のお話しがありましたが、遠慮させていただきました。こういう番組を通して、斎藤隆夫の名前を知っていただけることは、”斎藤隆夫を知ってもらう会”代表の私といたしましては、この上なく嬉しいことと思っております。今後このようなことがありましたならば、会員の方々には事前に放映日等詳細をお知らせしたいと思いますので、ぜひ会員になっていただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。






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by mako-oma | 2015-07-09 20:38 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫を知ってもらう会

しばらくお休みしてしまいました。この間にも「マクーマの部屋」を訪れてくださった方々、ありがとうございます。せっかくいらしていただいたのに、ブログ更新されておらずにごめんなさい!

このたび「斎藤隆夫を知ってもらう会」を立ち上げました。

昨年12月4日、NHKBSプレミアムの「英雄たちの選択」という番組で、祖父斎藤隆夫が取り上げられました。「開戦前夜!政治家斎藤隆夫の挑戦~命をかけた名演説~」というものでした。 その後多くの方々から、「感動した!」「こんなにも気骨な政治家がいたなんてちっとも知らなかった」「言論統制されているあの時代に、命がけで国民が知りたいこと、聞きたいことを言ってくれた政治家がいたなんて、本当にすごい!」「もっと多くの人に知ってもらうべきだ」等々のお言葉をいただき、反響の大きさに大変嬉しく思っております。番組はその後、再放送され、更に4月に再々放送もされました。
戦後70年の節目の今年、両親の友人・知人から送られてきた斎藤隆夫に関連する新聞記事を皆様にご覧いただきたく、ブログを開設し半年近くが経とうとしておりますが、手元の新聞記事も残り少なくなってまいりました。国会での安全保障関連法案がどうなるのか、気になるところですが、現役国会議員の大半は戦争を知らない世代ということです。いくら法律で決められていることでも、時の権力の意向により、いかようにでもなるという歴史の事実を忘れてはいけないと思います。

斎藤隆夫が粛軍演説の中でいっています。
http://makooma.exblog.jp/21029685/
http://makooma.exblog.jp/21034920/


両親の死後、新聞記事は集まらなくなりましたが、先日は朝日新聞でかなり大きく取り上げられました。6月6日の夕刊です。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11795640.html
同じ6月6日(日)の朝刊 be のフロントランナーで歴史学者の磯田道史さんは、『「政府軍部の進める大陸政策はおかしい」と1940年2月に国会で演説し、除名された衆院議員の斎藤隆夫。こうした勇気と品格のある人の発掘も、続けていきたいです。』と言われています。
斎藤隆夫を直接知っている記者の方も、もうほとんどいらっしゃらないのではないかと思いますが、今年になってからでも1月3日の毎日新聞・余禄や、4月22日の社説等で斎藤隆夫の名前が出てきます。あいにく我が家でとっている新聞は日本経済新聞なので、その他の新聞に載っていてもわかりません。そこで広く皆様に会員になっていただき、ご協力をお願いしたいと思いました。斎藤隆夫に関連する新聞記事がありましたら、ぜひご連絡いただきたいとおもいます。会員になってくださった方々には憲政記念館等での催事、ブログ更新のお知らせ等させていただきたいと思います。ご協力いただける方はぜひご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。





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by mako-oma | 2015-07-01 21:56 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

問われるべきは「政治の質」

点評               
     1992年 日付不明 新聞社不明

粟屋憲太郎立教大教授の「昭和の政党」(小学館)は、「粛群演説」などで、議会史にさん然とした地位を占めている民政党の斎藤隆夫衆院議員の活躍を冒頭に取り上げることで、軍国主義の風潮に流されていった戦前の議会人の姿を描いている。
斎藤は、政党もマスコミも軍部批判を自粛するようになった1930年代後半も節を曲げず、40年2月の「反軍演説」で除名される。しかし、斎藤を除名した議会は結局、翼賛政治への道を転がり落ちていった。この本で、特に感動的なのは粟屋教授が斎藤の選挙区、兵庫県但馬地方を歩いたフィールド・ノートを元に齋藤と支持者の関係を描いているくだりだ。斎藤の選挙はすべて法定費用内でまかなわれ、普段の政治活動は年一、二回選挙区に帰り演説会を開くだけだった。演説会といえば今も変わらぬ地元への利益誘導的内容が多かった中で、斎藤は自分の政見に熱弁を振るい、演説に感動した支持者は手弁当で斎藤のために走り回った。除名の二年後、激しい選挙干渉にもかかわらす斎藤が議会に再帰できたのは、政治信条で結び付いた支持者たちがいたためだ。同著には斎藤の政治資金の内訳は紹介されていない。が、政治姿勢、権力・右翼の干渉を考えると、資金面でも清廉でつましかったことがうかがえる。このほど自民党の「政治改革を実現する会」が発表した衆参国会議員29人の昨年一年間の政治活動集資金によると、一人平均1億3378万円のカネが出入りしたという。巨額の資金調達の方法、収支の透明性も問題だが、同時に問わなければならないのは何を「政治活動」と見るかだ。支出の36%は秘書などの人件費で、活動費30%のうちの政策活動費は9%だけ。残りは後援会活動費と冠婚葬祭費だという。そこには飲食、旅行など派手な後援会活動と、後援会の面倒を見たり、カネ集めに奔走する大勢の秘書陣の姿が浮かび上がってくる。政治活動の規制は論外だが、その質にも目を向けなければならないだろう。供応まがいの活動を支えるために、献金、パーティー、派閥から年間1億円前後の資金を調達しなければならないとしたら、議員はまず”資金源”の顔色を見るようになる。「見返りのない献金をすれば背任。見返りのある献金は贈賄」といわれるが、同会の発表した収支からはカネが議員を毒している構造が見える。議員はカネ集めの理由にカネのかかる選挙をあげ、近く国会に提案される政治資金規正法改正案でも企業・団体献金の抜本見直しは見送られる。しかし、斎藤のように政治信念で有権者をつなぎ留められない不足分をカネで補うことが当然視されてはならない。「政治活動」を問うとき、斎藤は今なお一つの手本を示している。(原文通り)



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by mako-oma | 2015-05-16 08:49 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

交友抄 東北のぬくもり

 1992年(平成4年)3月4日 日本経済新聞  矢島欽次

墨絵のような空から今にも降ってきそうな日であった。「やあ、どうも遅くなりまして」と言いつつ、草柳大蔵さんが入って来られた。その瞬間、対談のための部屋は、パァッと明るくなったような気がした。草柳スマイルのなせるわざであろうか。これは、仙台放送の毎日曜午前10時から始まる「ごきげんよう草柳です」のテレビ出演時の光景である。この番組は、始まってからかれこれ、20年、現在も続いている。東北6県と新潟県だけにしか放映されていないのが残念だ。草柳さんはこの番組に毎回、工夫をくらしている。対談中は一切CMを入れないとか、四季折々の詩歌を冒頭に掲げて季節のこころを序章とする。私は出演のたびに草柳さんの番組に対する繊細な心くばりに驚いている。草柳さんとの交友は何十年にも及ぶ。あうんの呼吸というか、リズムがよほど合うのであろう。そもそも草柳さんと私との出会いには、東北電力副社長の小林智夫さんが仲人役の任に当たった。3人そろい踏みをすると話は尽きない。確か草柳さんと晩秋の東北路を旅していたときだと記憶している。前の晩、国政の乱れを憂えていた草柳さんに、文才のない私になり代わって斎藤隆夫伝なるものを書いていただきたい、もう斎藤隆夫のことを知る日本人はほとんどいないではないかと懇請した。戦時中、軍部がわが世を謳歌していたとき、文には文の職分あり、軍には軍の職分がある、されば軍は軍の職分に専念し、政治に口出しするなという「粛軍演説」を国会で堂々とブチ上げた男がいた。それが斎藤隆夫である。今の自衛隊論議とはまったく関係ない。草柳さんは黙して語られなかったが、その後、私の期待する以上の傑作「斎藤隆夫かく戦えり」(文芸春秋)なる立派な書を公刊された。草柳さん、小林智夫さんは私の心の友である。東北は吹雪の中でも温かい。人情の古里であり、傑作を発酵させる場でもあるから。(やじま・きんじ=青山学院大学教授)




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by mako-oma | 2015-05-11 22:49 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

新編戦後政治 41 女性たちが語る  三木睦子さん〈2〉

斎藤氏の反軍演説傍聴 政治テスト?武夫氏に誘われて
                    
1992年(平成4年)1月12日  毎日新聞 編集委員 岩見隆夫

総理の片山哲さんは品よくおっとりしていらした。口数は少ないのですけれど、内に秘めたものがたっぷりあるような、たいへん知識の豊富な、だけどひけらかさないというか、感じとしては井出一太郎さんみたいなね。
西尾夫人に敬意 
それから、西尾末広夫人に私は大変敬意をもっていました。経歴を聞いてみると、西尾さんと同じように働いていらした方で、苦労もされたというんですけれども、立派な信頼できる人だと思ってましたよ。まあ地味な格好はしてらっしゃいましたけど。ちょくちょくお目にかかってました。占領下ですから、そんなに派手な行き来するようなことはなかったんですけど。片山内閣には国務大臣に斎藤隆夫さん〈当時、民主党最高顧問)がいらっしゃいましてね。この方はどっちかというと体の大きくない方でしたけれども、私は戦争がはじまる前の国会での演説の時にお目にかかった。お目にかかったというより、母が三木に誘われて、私はただお添えもので、「ついておいで」と母が言うから、くっついていったんです。彼は議員ですから、傍聴券を2枚ずつもらえる、それを母に渡したものですから、私たちは傍聴席からのぞいて、三木は議場を出たり入ったりしてました。遠くから見ているだけですけど。それでも毎日、斎藤さんのことは新聞に記事が出てますからね。こっちが顔、姿をしっていました。三木と結婚する数年前です。〈斎藤隆夫をおいて議会演説を語ることはできない。戦前、斎藤は再三、壇上から軍部に挑戦した。歴史に残るのはまず2・26事件直後、1936〈昭和11)年5月の粛軍演説。軍部の乱れを一刀両断した。翌朝の『東京日日』(いまの『毎日』には、「斎藤氏熱火の大論陣 国民の総意を代表し 軍部に一大英断要望」の大見出しが躍った。ついで、1940(昭和15)年2月、日中戦争が4年目に入った大戦前夜にも斎藤は反軍演説に立つ。「いたずらに聖戦の美名に隠れて・・・」ではじまる有名な熱弁。拍手なりやまずだったが、軍部は怒り狂い、議会は斎藤を除名処分にした。睦子夫人が傍聴したのは、その間の1937,8年ごろの演説と思われる〉 その時にね、母は大変皮膚の弱い人だったもんですから、ニスでかぶれちゃったんです。いまの議事堂ができたばかりで、ニスも新しく、母は傍聴席の前に身を乗り出して議場を一生懸命のぞいたりしましたからね。それで、目が開けられなくなって、大騒動です。沢蟹(さわがに)を生のままたたいてつぶした汁をつければ治るとかいって、いろんなことをやったんですけれど、「かゆい、かゆい」と幾日も夜通し騒ぎましてね。伊豆だか熱海だか、温泉が効くということで、私も一緒に行ったんです。そこへ、武夫が見舞いにやってきました。病気のもとを作ったというんで。〈長女、高橋紀世子の証言。「父が議員在職50年の表彰を受けた時に、衆議院議長室の原健三郎さんの所に表彰状をいただきに母と伺ったんです。父は入院してましたから。それで傍聴席に入ったんですが、常日ごろ母は国会には行きたがらなかったのですから、私の記憶になかったので『ママ、はじめてでしょう』と聞いたところ『50年前ごろ一度だけ』と言うんです。それで、斎藤さんの反軍演説を聞いたことをはじめて知りました。『母親に言われて』と祖母のせいにしてますが、父としては母を誘ったんじゃないか、初デートだったのだろうと私は思うんですけれど・・・。でも、ちょっといい話だと思いました。実業をしていた母の里、森の家に強い反戦ムードがあったとは思えない。だから、父は母に、斎藤演説を聞かせることによって、自分の思想というんですか、自分の考えをわかってもらえるかどうか、テストしてみたのではないかと思うんです。病床の父に、そんな私の想像を話してみたことがあるんですが、まんざらうそではないという顔をしていました。照れましたから」〉… 後略

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by mako-oma | 2015-05-08 20:40 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家

風見鶏    民衆の声代弁、議会百年に光芒
                     
       1990年(平成2年)3月19日 日本経済新聞

国会議事堂に隣接する憲政記念館で、恒例の特別展が開かれている。今年は昭和の政党史がテーマ。昭和初期の政友会、民政党による政党内閣時代から戦後、昭和30年の保守合同、左右社会党の統一までを扱っている。戦争をはさんで、政党政治の興隆、退潮、復興の歩みが各種資料によってたどれる仕組みである。明治憲法下の戦前の政治で、政党や、それを土台にした議会政治が、本来の意味で十分機能せず、結局、軍部や官僚に取って代わられたことは歴史の示す通りだ。今日とは違い、そこには様々な制約があった。だが、軍部の台頭を許した責任の多くは、政党自身の腐敗や抗争、足の引っぱりあい、さらには軍部や時の権力への追従にあったこともまた疑いない。自ら墓穴を掘る形で政党政治に幕を閉じる戦前の議会史で光芒(ぼう)を放つのは、民政党代議士、斎藤隆夫(1870-1949)の存在であろう。軍部や官僚の主導する政治の追認・協賛機関にすぎなくなった議会で、「ネズミの殿様」のあだ名を持つ斎藤は、小柄な身体に似ず、二度にわたって政府・軍部を批判する演説を行った。昭和15年2月の演説のあと、斎藤は軍部と、これに同調する議会によって議員を除名される。その演説は衆院議長の手で大幅に削除された。斎藤の属した民政党は軍の圧力に抵抗するどころかかえって辞職を迫った。除名反対の片山哲、西尾末広らを抱えた社会大衆党は、逆に西尾らを除名した。今年の特別展はこの斎藤隆夫を「異色の政治家」として採り上げ、特別のコーナーを設けている。斎藤は辞職を勧告する民政党幹部に「言論の議会で国民が問わんとする所を問うたのであり、議員の職をなげうつは国民に対して忠なる所以(ゆえん)でなく、憲政擁護の途でない」と反論した。斎藤隆夫については何冊かの著作があり、回想録もある。詳細はそれらの書物に任せるとして、問題は政治家の在りようとして当然とも言える、「国民が問わんとする所を問うた」斎藤を、「異色の政治家」と紹介しなければならないわが議会史のさびしさ、むなしさである。日本の議会はこの秋、明治23年の帝国議会の開設から百周年を迎える。が、その長さに比して、民衆の声を代弁し、民権の発展や憲政擁護のために足跡をしるした政治家はさほど多くはない。戦前の多くの時期、民主主義やリベラリズムは異端とされ、危険視されてきたことを考えると、それは当然の結果と言えるかもしれない。議会は斎藤を除名したが、その際、7人の議員が反対票を投じた。そのなかには後の首相、芦田均らの名が見える。除名を決めた本会議では賛成296、反対7のほか144もの大量棄権票が出た。反対票を投じる勇気はないものの、時勢を憂え、斎藤の言動に共鳴を寄せる議会人がなお多数いたことを物語っている。考えてみれば、少数派で、異色の存在であった斎藤隆夫によって、戦前の議会史はかろうじてその存在と名誉とを後世に対し残し得たといえよう。と同時に戦後史のなかで必ずしも高い評価を与えられていない片山哲、芦田均、西尾末広といった政治家が、議会の存亡の危機に際し、憲政擁護と言論の自由のために、それこそ命がけで行動し、政治信念を貫いたことは、もっと記憶されていいだろう。今日、政党政治に基づく日本の議会政治は、戦後40年を経てそれなりに定着している。戦後復興や経済発展に寄与したところも少なくない。だが、俗に「永田町」は別世界視されるように、国家や政党の現状に対する世の不満が強いのも事実である。今回の特別展には議会を除名された斎藤隆夫を励ます一般市民からの古びたはがきや手紙が多数、展示されて印象深かった。現存するものだけでもその数は700通をこえるという。  (編集委員 金指正雄)

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by mako-oma | 2015-05-04 21:28 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

余禄

           1991年(平成3年)1月30日  毎日新聞

代表質問が続いている。言いっぱなしに聞きっぱなし、つまらないことおびただしいという評判が専らだが、そう決め付けるのは酷だ。すばらしい代表質問がある。ご静聴願います。「国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べ立てて、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない」「いつぞやある有名な老政治家が演説会場において聴衆に向かって、こんどの戦争の目的はわからない、自分にはわからない、諸君はわかっているか、わかっているならば聞かしてくれと言うたところが、一人として答える者がなかったということである」「国民に犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。政府の首脳部に責任観念が欠けている。身をもって国に尽くす熱力が足りないからであります。国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もない、その器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する」「国民的支持を欠いているから、何事につけても自己の所信を断行する決心もなければ勇気もない。 姑息とう安(一時しのぎで)一日を弥縫(とりつくろう)するところの政治をやる。失敗するのは当たり前であります」昭和15年2月2日、衆議院本会議で民政党・斎藤隆夫の代表質問である。この部分は速記録から削除され、斎藤は除名された。海部内閣をあてつけているわけではないが、胸のすくような名演説だ。昔はこんな勇気ある保守党議員がいた。いまは・・・                         

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by mako-oma | 2015-05-01 17:27 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

反骨の政治家 斎藤隆夫の日記公開


昭和初期の軍部台頭や政党の無力を如実に
              
     1990年(平成2年)11月6日 産経新聞(?)

大正・昭和を通じ憲政会・民政党議員として活躍、2・26事件、日中戦争の混乱期に軍部からの圧力にも屈せず”反軍演説”をしたことで知られる斎藤隆夫の日記が10日発売の「中央公論」12月号で公開されることになった。掲載されるのは全日記のうち、昭和14年12月から15年3月までの4か月間。淡々とした事実の記述の中に、隠れた昭和史の一端をうかがわせる貴重な資料といえる。斎藤元代議士は、明治45年の総選挙に、郷里の兵庫県から国民党候補として出馬して初当選。大正期には、憲政会議員として普通選挙論を展開し「大正デモクラシー」期の旗手の一人となった。昭和11年、2・26事件直後の第69議会で軍部を批判した「粛軍演説」は特に有名。さらに、「支那事変がぼっ発しましてからすでに、2年有半…、内外の情勢はますます重大を加えているのであります」ではじまる15年2月2日の議会演説では、対中国政策を舌鋒鋭く指弾した。この演説については「首相、蔵相、興亜院総裁答弁あり、きわめて不完全なり。予の演説に付ては小会派より幾らかの野次起こるの外拍手を以って迎える」など、細部にわたって書き残されている。しかし、「支那の独立主義尊重」の名で行われる戦争に疑問を投げる演説も、日記によれば、民政党総裁さえも賛成ではなかったという。昭和初期の軍部の台頭と政党の無力さを如実に物語っている。斎藤元代議士は、この演説がもとで議会を除名になった。除名決定直前、2月24日の日記には「経過並びに懲罰理由など7項目を一々弁駁(べんばく)し、更に(懲罰動議の)提出者の説明を求む。…委員会は予の全勝なり」と記している。戦後も日本進歩党結成に参加したが、24年10月7日、79歳で亡くなった。日記は、このほか議員になる前の明治39年から没する直前の昭和24年7月まで、毎日の行動記録がB4判大のノート20冊に克明に記されており、同代議士の二男で元衆議院法制局次長の義道さん(69)が保管していた。義道さんは「今年は国会開設100年にあたり、おやじの業績も改めて評価されるのではと思い、プライバシーにかかわる部分は除いて公開に踏み切った」という。


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by mako-oma | 2015-04-28 16:04 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

評論家ごっこ

                   平成元年2月11日
                 演説評論家・永 六輔

日本の政治家・演説をやめて朗読をするようになってしまったのは何故なのだろう。その朗読も意味不明にするようになってしまったのは何故なのだろう。演説評論家が、朗読評論家にならなければいけないなんて…と僕は嘆息をつく。それが国会でも、会社でも家庭でも演説がめっきり減ってしまった。読んで間違えないようにという気持はわかるが、これでは言葉が武器にならない。特に竹下さんチの登チャンの朗読は困ったもので、何度聞いてもよくわからない。演説するともっとわからないというニューヨークの世界になっている。
あのォ、学生運動のォ、独特なァ、演説もォ、姿ォ、消したァ!
国会における質問と答弁という形も、脚本の読み合せで迫力が無い。
ボクシングのような、丁々発止の討議は、深夜のテレビで時々噂に聞く程度である。演説でも討議でもなく「おしゃべり」とか「トークショウ」の時代になり、会社の会議も和気藹々、誰も傷つかず、責任をとらない形になっているとのこと。だから駄洒落は生れても名文句が生れることがない。国会の演説が昔から粗末なわけではない。支那事変の批判演説をして除名された斎藤隆夫みたいな人もいるのである。中央文庫の「斎藤隆夫回顧70年」にはその時の演説が納められている。どこかで演説をする機会のある人は、それが結婚式の祝辞だろうが読むことをおすすめする。演説の魅力に溢れている上に、言葉が武器になっているのだ。(だからこそ除名された)政府に対する質問演説だが、相手が答えそうなことは先に答えてしまい、誤魔化すことを許さない姿勢で迫ってゆく。言い訳けは不要!政府はグーの音もでない。こんな演説をあなたの女房に読まれたら大変だ。除名つまり離婚になる。「ふるさと創生」「司々」「辻立ち」というような意味不明の言葉もコッパミジンにされてしまうだろう。竹下さんチの登チャンは論敵がいなくて運が良かった。この文庫は440円。会社や組合で会議のある人には貴重な参考書になる。戦時下の軍部批判だからユーモアまでは求められない。ユーモアというなら、J・B・シンプソンの「世界を動かした名言」(講談社)が面白かった。「馬は死ぬ前に売ってしまうことだ。人生のコツは損失を次の人にまわすことである」「もみ手商法や押売り商法はありません。あるのはわな商法と馬鹿な商法だけ」「売れないのは品物が悪いわけじゃない。お前が悪い」この本、英文対記だから英語の勉強にもなる。さァ、演説の練習をしてみよう。

「回顧70年」は某ゼネコンに勤めていた友人が、人事担当をしていた当時、「内定式で入社前に是非読んでおいて欲しい本として学生に薦めていた。」というのです。
http://makooma.exblog.jp/20989093/
「え~っ!?なんで?」と思いましたが、この記事を見て納得しました。



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by mako-oma | 2015-04-25 20:30 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)