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斎藤隆夫にみる真の政治家(10)~粛軍演説~

さらに、5.15事件に関係した青年将校20名のほかに、「これ以外に、より以上の軍部首脳者にしてこの事件に関係している者は一人もいないのであろうか」と追及した。山本検察官の論告の中に、この疑いの可能性を示すものがある。簡単に挙げると、①被告は、戒厳が宣告されそうになったらどこからか大きな勢力が現れて、当然これを収拾してくれるだろうと確信していた。②部下指導における上司の態度はきわめて曖昧で、彼らの行動を上司は認容していたかのようにみえる。このようにして斎藤は、軍部秘密所に言論の刃を突き刺した。以上、要約すると、5・15事件の原因は、次の二つということになる。一つは青年軍人の思想問題、もう一つは事前監督および事後に対する軍部当局の態度である。そこで一転して、それでは軍部以外の政治家はどうなのか。立憲政治家たるもの、正々堂々と国民の前に立ち、公明正大に政治上の争いをするべきである。裏で策動して陰謀を企てるなど、許すべからざること。まして、政治圏外にある軍部の一角と通謀し、自己の野心を遂げようとするに至っては、これは政治家の恥であり堕落であり、卑怯千万のふるまいである。斎藤は暗に、軍部がのさばるのは立憲政治家の側に軍部に乗せられるところがあるからだと指摘しているのだ。「私は全国民に代わって軍部の一大英断を希望する者であります」   (つづく)
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by mako-oma | 2017-05-31 21:13 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(9)~粛軍演説~

5.15事件においては、軍人が一国の総理大臣を銃殺したわけで、その罪の重大であることは言うまでもない。海軍刑法によれば、叛乱罪は死刑一点張りで、選択刑は許されていない。よって、死刑の要求が下った。ところが、その判決に反対運動が起こり、軍の上層部はこれを抑止せず、山本検察官の身に危険が迫ったため、多数の憲兵が彼を保護する、家族は遠方に避難…このような状態で、裁判の独立が維持できるはずがない。裁判の結果は、死刑の要求は13年と15年の禁固となり、軽いのは1,2年、しかも執行猶予つきとなった。ところが、同じ事件に関係した民間側被告の主犯は、無期懲役に処せられている。ある発電所に爆弾を投じたけれども未発に終わり、何の被害も出さなかった、それなのに、この極刑である。民間人であり、普通裁判所に属する者だから。一方では、実際に犬養首相の殺害に手を下したにもかかわらず、その人が軍人であり、軍事裁判所に属したため、はるかに軽い刑ですんでいる。人と場所によって、ここまで差別が生れる。天皇の御名において行われる裁判は、徹頭徹尾独立であり神聖であり、公平でなければならない。これで国家の裁判権が遺憾なく発揮されたということができるか。斎藤は、そのように軍を質し、5.15事件の主体的構造を解明することによって、2.26事件との連続性に強烈な光を当てている。 (つづく)
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by mako-oma | 2017-05-30 21:20 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(8)~粛軍演説~

斎藤は首をふりふり核心に入る。事件のもう一つの原因として、青年軍人の直接行動に対する軍部当局の態度を挙げている。昭和6年の3月事件、10月事件は、5.15事件および今回の反乱事件(2.26事件)と性質を同じくするものだが、この両事件に対し、軍部はどう処置したかというと、少しも徹底した処置をとっていない。「寸にして断たざれば尺の憾みあり、尺にして断たざれば丈の憾みあり、たとえ一木といえども、その根が深く地中に蟠踞するに至っては、これを倒すことは容易ではない」 軍部当局が事件を「闇から闇へ葬る行為」をくり返したこと、さらに、いくつかの不祥事件を起こしながら、立憲政治への介入を継続させたこと、この二点が演説の中に展開する。    (つづく)
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by mako-oma | 2017-05-29 21:50 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(7)~粛軍演説~5.15事件

斎藤は、自ら公判を傍聴した5.15事件に、その論点をもっていく。法廷における被告人の態度はきわめて堂々としていて、さすが青年軍人であった。彼らのしたことは、もとより国家社会を思う熱情から来たものであり、内にやましいところは一つもないのだから、それも当然のことだ。しかし、その思想はあまりに単純すぎた。彼らは22,3から30歳に満たない青年であり、軍事に関して一応の修行を積んでいるほかは、政治、外交、経済などについての知識・経験は皆無なのだ。無責任にして誇張的な言論機関の記事や、一部の不平家・陰謀家の言論が、何も知らない彼らを刺激した。今の政党、財閥、支配階級は、ことごとく腐敗堕落している、とか、このままでは国家は滅亡してしまう、とか、これを救うには、大化の改新にならって国家の改造をやるしかない、天皇親政、天皇中心の政治を行うには、軍事内閣を作らねばならぬ、とか。だれかが、今の政治は腐っている!といえば、確かな根拠もないまま、そうだそうだと信じる。ロンドン条約は統帥権の干犯だ!といえば、憲法上どこが統帥権の干犯なのか、よくわからないまま、これを信じる。国家の危機、直接行動のほかない!といえば、なんとなくそんな気がしてくる。青年将校が、革新のプログラムを持たずに、空疎な言論をもてあそんだ末、直接行動に出たのはなぜか。斎藤は、この根拠をわが国の国民性に求めている。「元来わが国民には、外国思想の影響をうけやすい分子がある」デモクラシーの思想がさかんになれば、われわれもデモクラシー。ナチス、ファッショん思想が起これば、またそろってこれに走る。「思想上において国民的自主独立の見識がないことは、お互いに戒めねばならぬことであります」軍事教育を受け、愛国の念に凝り固まった青年たちが、それらの言論をうのみにし、複雑な国家社会に対する認識を誤まったことが事件の大原因なのである、と斎藤はそのように主張した。とてもわかりやすい。 (つづく)
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by mako-oma | 2017-05-28 20:10 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(6)~粛軍演説~軍部の政治介入

『粛軍演説』の主調音は、政治集団と化した軍部の暗部をつくことにあった。つまり彼は、軍部そのものではなく、その「政治性」を批判したのである。明治天皇が軍人に賜った『軍人勅諭』,伊藤博文の『憲法義解』をはじめ、どの法律・規則を見ても、現役軍人に対しては、選挙権も被選挙権も認めていない。この理由は一つ、陸海軍は国防のために設けられたものだからだ。軍人はつねに天皇の統帥権に服従し、いざとなったら国家のために,身命をかけて戦争に従わなくてはならない。だから当然、軍人の教育訓練はもっぱらこの方面に集中される。政治、外交、財政、経済などは、軍人の知識経験の外にあるのだ。若し軍人に政治活動を許すと、政争の結果、武力にうったえて自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢い。そうなったら、立憲政治は破滅し、国家動乱、武人専制の端を開くものであるから、「軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります」ことに青年軍人の思想は、きわめて純真ではあるが、また単純であり、それ故に彼らが政治に参加するということは、きわめて危険性をもっている。 (つづく)
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by mako-oma | 2017-05-27 19:48 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

齋藤隆夫にみる真の政治家(5)~粛軍演説~

広田弘毅首相がその声明書の中で、「庶政一新」(各方面の政治を一新する)の決意を発表しているが、それに対して斎藤は、「申すまでもなく政治は宣言ではなくして事実である」百の宣言ありといえども、一の実行なきところにおいては政治の存在を認めることはできないのであります」要するに日本では、戦前も戦後も、行政改革の実現など内閣の宣伝だけだ、ということになるかもしれない。宣言と決意の大安売りで、どれも至難のものばかり。もちろん聞きたいのはどうやるかということだが、首相は肝心の点をぼかしたままである。当時、内閣も軍部も、又右翼や評論家、新聞雑誌等の論調も、日本に何らかの根本的「改革」が必要であり、また日本の針路を明確化した「国策」の樹立が必要だとする意見を表明していた。そうした中で、斎藤はその必要性を否定し、実際に行われている「革新案」に「理論あり、根底あり、実効性ある」ものを見ず、この種の無責任で過激な言論が、思慮の浅い一部の人々を刺激して、ここかしこに穏やかでない計画を作り出し、兇漢による反乱事件へとつながるのだ、とその危険性を指摘した。それはまさに、武力によって現状を打開しようとする政治の流れを表し、いわゆる国家改造路線へとつながるのである。首相への最後の質問は、国策について。一方で軍備の競争をしていながら、一方で外交政策は成功した、うまくいっているという、これはまったくもって偽りである。あちらが軍縮の拡張すれば我もまた拡張する、我が拡張すればあちらもまた拡張する、こういう勢いを持って進んでいったら末はどうなることか。世界の軍備拡大に歩調を合わせながら、どこに広田首相にいう「自主外交」「積極外交」があるのか、と問いただすと、斎藤は「此れより軍部大臣にお尋ねしてみたいことがあるのです」と急角度に主題曲に突入する。
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by mako-oma | 2017-05-26 20:51 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

齋藤隆夫にみる真の政治家(4)~粛軍演説~

昭和11年5月、2・26事件による戒厳令下の緊張のもと、第69特別議会が召集された。齋藤隆夫は、7日の衆議院本会議壇上に立ち、自他ともに認める三大演説の一つ『粛軍演説』を行った。概要は、次のとおりである。広田内閣の説く革新政治の具体的内容、ならびに外交と国防政策の問題点を鋭く追及するとともに、その後半では、2・26事件の原因と軍当局の態度を論難。斎藤は、軍部大臣に対し、明治天皇の『軍人勅諭』と伊藤博文の『憲法義解』をひきながら、軍人の政治不関与の原則を糾した。自ら公判を傍聴した5・15事件については、青年将校の議論の単純さと、これを扇動する陰謀家の無責任さを突き、軍人被告が軽い量刑ですんだ軍法会議の政治性を批判した。さらに「3月事件に対する軍部の態度が10月事件をよび、10月事件に対する軍部の態度が5・15事件をよび、5・15事件に対する軍部の態度が実に今回の一大不祥事件を起こした」と軍部にせまる。日本の国家組織は「立憲軍主制」として進むほかないのであるとして、「政治圏外にあるところの軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとする」政治家の堕落をついた。そして最後に、今回の事件についてはあらゆる階級が憤慨しているのに、言論の自由の拘束によって、これを公然と口に出来ない状態にあることを指摘し、「国民の忍耐力には限りがあります」と警告している。この昭和11年の日本には、いいことがひとつもない。簡単に説明すると、金輸出解禁の失敗による恐慌と、国内経済の疲弊、政党政治の腐敗、ドル買い事件などによって、かつてないほどに増した、国民の政党・財閥に対する不信感。ロンドン海軍軍縮条約に調印したはいいが浜口首相が反対派・右翼の青年に狙撃されて死亡。協調外交路線はゆきづまる。満州事変および満州国の建国による、日本の孤立。政党政治を直接行動で打倒して、軍事的な独裁体制を樹立しょうとする国家改造路線による三月事件、十月事件、5・15事件、そして2・26事件と相次ぐテロ事件。外交も内政も行きつくところまで来ている。これ以上、優柔不断な政治は許されない。  (つづく)
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by mako-oma | 2017-05-25 22:59 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

齋藤隆夫にみる真の政治家(3)

「国会議員に必要なのは見識ですよ。代議士が大臣になりたい、幸せになりたいでは国は滅びますよ。」こう言い切る斎藤が、最も嫌ったのは「金のかかる選挙」であり、派閥政治であった。資金活動をしない代わり、但馬各地につくられた立憲青年党の若者たちが、手弁当で日ごろから運動に取り組む。先生を落選させては但馬の恥だという意気込みが、選挙のたびに広がり、他陣営から”斎藤宗”と呼ばれていた。選挙はすべて法定費用内でまかなわれ、普段の活動は年一、二回選挙区に帰り演説会を開くだけだ。
斎藤はまた、地元への利益誘導に厳しい。公共事業をするといって党派の拡張を計るのは、政府や政党のなすことではなく、「全く強盗の仕業であります。」演説会といえば今も変わらぬ地元への利益誘導的内容が多かった中で、彼は自分の政見に熱弁を振い、演説に感動した支持者がすなわち”斎藤宗”となった。斎藤のように政治信念で有権者をつなぎとめられない、その不足分をカネで補うのは当然……これが今の時代である。対立陣営から「地元の利益にならない代議士」と攻撃されても、斎藤票は揺るがなかった。治水や鉄道建設など地元に必要な事業は黙っていてもきちんとやってくれた、と当時の運動員の一人が、その頃をふり返って言う。他にも、斎藤は「己の立脚地も定めずに他人の後を追って走るがごときは,独立人にあらずして一種の奴隷である。」と親分子分が結びつく派閥を嫌った。また、軍事費の突出にも監視を忘れず、財政上の問題はそもそも軍事予算の増加によるもので、増税問題もここからきている、と軍拡に鋭く目を光らせた。 ここで大切なのは、斎藤隆夫は、反軍思想家でもなければ反戦政治家でもないということ。いわば、戦前の”平均的日本人”である。天皇を敬愛し、家族の健康を願い、いつまでも故郷の但馬をなつかしみ。適当に教育パパで、娘の婚期が遅れるのを心配し、宴会用の歌曲を習い、息子たちの学徒出陣の際には、「お国のためになるんだぞ」と日の丸の旗を肩にかけてやっているのである。「あいつは偉くなっても変わらないから偉いやつだ。」とは、斎藤の姉、みつの言葉である。(つづく)

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by mako-oma | 2017-05-24 19:32 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(2)~斎藤隆夫という人~

明治3年(1870年)兵庫県但馬郡出石に生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、弁護士となり、渡米してエール大学に学ぶ。1914年以降、衆議院議員当選13回。2・26事件直後の臨時国会で粛軍演説を行い、また昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)に関する質問演説を行って大陸政策を批判し、そのため議員を除名される。戦後は第一次吉田内閣、片山内閣の国務大臣となる。昭和24年(1949年)10月死去、79歳。

五尺そこそこの小男。若いときアメリカで結核にかかり、肋骨を7本も取る大手術をした。そのため、身体が右後方によじれていて、それが演説するときの独特のポーズになっている。斎藤は、それが癖の、首をフラフラと振りながら、議会の壇上に立つ。演説原稿というものはかつて持ったことがない。演説の数日前に草稿を完成し、庭を散歩しながら暗唱するのである。彼は、原稿と首っぴきの政治家を「何たる醜態か、自分のものになっていないものをよく口にできるものだ。」と軽蔑している。登壇した斎藤をとらえた、ある雑誌の記事には、次のように書かれている。「およそ風采の振わないといってこれくらい振るわないのも珍しい。形容枯槁、これ以上痩せようはないという顔つきで、天下の不景気を一人で背負っているかのようだ。しかも一度口を開けば、さすがに千軍万馬の名将、提げて起つは得意の憲法論、満場うならざるをえない。」ところが、議事壇上から降りるや否や無類の話し下手になる。親分子分をつくらない。資金活動をしない。選挙区のために働かない。酒もたばこもやらず、宴会では居眠りばかりしている。それでいて、当時の政界にこれくらい存在感のある政治家はいなかったという。  (つづく)

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by mako-oma | 2017-05-22 20:34 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫にみる真の政治家(1)

これは、1993年(平成5年)一人の女子高生の書いたレポートから抜粋したものです。
『政治が乱れて国民の不信感が強まるたびに、にわかに脚光を浴びる一人の政治家がいる。「政党および代議士に対しては、常に監督の責任を忘れてはならない。これが国民の政治道徳である」とは、彼の言葉である。新聞や雑誌のどこかに、「彼を見習え」だの「真の政治家」だの、そういった言葉を見つけるとき、たいてい日本の政治はひどい状態にある。代議士・斎藤隆夫。彼について、知りたいと思った。政権政党に属しながら派閥政治を好まず、とりわけ軍人の政治介入を批判、「言うべきことを言う」政治家として潔く生涯を貫いた人である。「政治家は1本のろうそくたれ」と言い、自分の身を焼き尽くしてでも、世の中を照らし、明るくしなければならない、と説いた。79歳で世を去って44年、その数々の語録は、今日の政治を指摘しているようにみえる。彼の活躍した時代は主に、現在のアジア諸国による対日警戒感を生み出した、軍部全盛の時代である。もちろん今とは大きく違う。制度上は自由が保障され、「軍部」に匹敵する巨大な権力もない現代の日本では、自分の命をも顧みずに言論を吐く、そんな悲壮感など必要ではない。しかし、だからこそ今、言論は紙風船のように軽くなっていく。後年、今の時代を的確に語った演説が、議会の速記録から発見されることはまずないだろう。今から半世紀あまり昔、こんな一人の政治家がいた。現代と比較しながら、その実態をさぐってみたい。   (つづく)

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by mako-oma | 2017-05-17 21:57 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)