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反骨の政治家 斎藤隆夫の日記公開


昭和初期の軍部台頭や政党の無力を如実に
              
     1990年(平成2年)11月6日 産経新聞(?)

大正・昭和を通じ憲政会・民政党議員として活躍、2・26事件、日中戦争の混乱期に軍部からの圧力にも屈せず”反軍演説”をしたことで知られる斎藤隆夫の日記が10日発売の「中央公論」12月号で公開されることになった。掲載されるのは全日記のうち、昭和14年12月から15年3月までの4か月間。淡々とした事実の記述の中に、隠れた昭和史の一端をうかがわせる貴重な資料といえる。斎藤元代議士は、明治45年の総選挙に、郷里の兵庫県から国民党候補として出馬して初当選。大正期には、憲政会議員として普通選挙論を展開し「大正デモクラシー」期の旗手の一人となった。昭和11年、2・26事件直後の第69議会で軍部を批判した「粛軍演説」は特に有名。さらに、「支那事変がぼっ発しましてからすでに、2年有半…、内外の情勢はますます重大を加えているのであります」ではじまる15年2月2日の議会演説では、対中国政策を舌鋒鋭く指弾した。この演説については「首相、蔵相、興亜院総裁答弁あり、きわめて不完全なり。予の演説に付ては小会派より幾らかの野次起こるの外拍手を以って迎える」など、細部にわたって書き残されている。しかし、「支那の独立主義尊重」の名で行われる戦争に疑問を投げる演説も、日記によれば、民政党総裁さえも賛成ではなかったという。昭和初期の軍部の台頭と政党の無力さを如実に物語っている。斎藤元代議士は、この演説がもとで議会を除名になった。除名決定直前、2月24日の日記には「経過並びに懲罰理由など7項目を一々弁駁(べんばく)し、更に(懲罰動議の)提出者の説明を求む。…委員会は予の全勝なり」と記している。戦後も日本進歩党結成に参加したが、24年10月7日、79歳で亡くなった。日記は、このほか議員になる前の明治39年から没する直前の昭和24年7月まで、毎日の行動記録がB4判大のノート20冊に克明に記されており、同代議士の二男で元衆議院法制局次長の義道さん(69)が保管していた。義道さんは「今年は国会開設100年にあたり、おやじの業績も改めて評価されるのではと思い、プライバシーにかかわる部分は除いて公開に踏み切った」という。


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by mako-oma | 2015-04-28 16:04 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

評論家ごっこ

                   平成元年2月11日
                 演説評論家・永 六輔

日本の政治家・演説をやめて朗読をするようになってしまったのは何故なのだろう。その朗読も意味不明にするようになってしまったのは何故なのだろう。演説評論家が、朗読評論家にならなければいけないなんて…と僕は嘆息をつく。それが国会でも、会社でも家庭でも演説がめっきり減ってしまった。読んで間違えないようにという気持はわかるが、これでは言葉が武器にならない。特に竹下さんチの登チャンの朗読は困ったもので、何度聞いてもよくわからない。演説するともっとわからないというニューヨークの世界になっている。
あのォ、学生運動のォ、独特なァ、演説もォ、姿ォ、消したァ!
国会における質問と答弁という形も、脚本の読み合せで迫力が無い。
ボクシングのような、丁々発止の討議は、深夜のテレビで時々噂に聞く程度である。演説でも討議でもなく「おしゃべり」とか「トークショウ」の時代になり、会社の会議も和気藹々、誰も傷つかず、責任をとらない形になっているとのこと。だから駄洒落は生れても名文句が生れることがない。国会の演説が昔から粗末なわけではない。支那事変の批判演説をして除名された斎藤隆夫みたいな人もいるのである。中央文庫の「斎藤隆夫回顧70年」にはその時の演説が納められている。どこかで演説をする機会のある人は、それが結婚式の祝辞だろうが読むことをおすすめする。演説の魅力に溢れている上に、言葉が武器になっているのだ。(だからこそ除名された)政府に対する質問演説だが、相手が答えそうなことは先に答えてしまい、誤魔化すことを許さない姿勢で迫ってゆく。言い訳けは不要!政府はグーの音もでない。こんな演説をあなたの女房に読まれたら大変だ。除名つまり離婚になる。「ふるさと創生」「司々」「辻立ち」というような意味不明の言葉もコッパミジンにされてしまうだろう。竹下さんチの登チャンは論敵がいなくて運が良かった。この文庫は440円。会社や組合で会議のある人には貴重な参考書になる。戦時下の軍部批判だからユーモアまでは求められない。ユーモアというなら、J・B・シンプソンの「世界を動かした名言」(講談社)が面白かった。「馬は死ぬ前に売ってしまうことだ。人生のコツは損失を次の人にまわすことである」「もみ手商法や押売り商法はありません。あるのはわな商法と馬鹿な商法だけ」「売れないのは品物が悪いわけじゃない。お前が悪い」この本、英文対記だから英語の勉強にもなる。さァ、演説の練習をしてみよう。

「回顧70年」は某ゼネコンに勤めていた友人が、人事担当をしていた当時、「内定式で入社前に是非読んでおいて欲しい本として学生に薦めていた。」というのです。
http://makooma.exblog.jp/20989093/
「え~っ!?なんで?」と思いましたが、この記事を見て納得しました。



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by mako-oma | 2015-04-25 20:30 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

再々放送

NHKの朝ドラ「まっさん」も終わってしまいましたが、娘エマのセリフに「どうしてこの戦争を止められなかったの!」というのがありました。これは日本国民みんなの気持ちではないでしょうか?本当にどうして止められなかったのでしょうか?斎藤隆夫は日中戦争の泥沼化をどこかで止めなければ駄目なんだということを昭和15年2月2日の「支那事変処理に関する質問演説」で言ったのです。もしもその時戦争をやめていれば、それが太平洋戦争につながり、多くの命が失われることはなかったのです。斎藤隆夫は命をかけて国民が聞きたいことを代弁したのです。この演説は聖戦を冒涜するものだとして小山衆議院議長の職権で、議事録から後半、全体の三分の二を削除され、その後懲罰委員会にかけられ、3月7日、本会議は賛成296、反対7、棄権144で除名を決めます。政友会久原派の芦田均は反対票を投じ、社会大衆党の片山哲は棄権しました。後にこの二人は総理大臣となります。齋藤演説の後、「聖戦貫徹議員連盟」が結成され、我が国は太平洋戦争への道を急ぐことになるのです。 この除名処分をめぐり、社会大衆党、政友会久原派、民政党それぞれに混乱し、その結果各党は一斉に解党し、ここに政党政治は崩壊し、大政翼賛会へと流れていきます。そして、翌年、太平洋戦争に突入していくのです。除名後に行われた昭和17年の翼賛選挙の時は、大政翼賛会の推薦者と非推薦者の間で戦われ、斎藤は非推薦であったので、選挙ポスターが差し押さえられたりして大変な思いをしたようですが、それにもかかわらず最高得点で当選しました。
今年は戦後70年の節目の年となります。新たな安全保障法制をめぐる自民・公明の協議が決着する見通しとなりました。自衛隊の海外派遣が拡大され、歯止めがかからなくなることのないよう、十分に審議してほしいと思います。
日本の安全保障に関するこんなにも大きな問題が、国民の間に何の議論もなく、気が付いたときにはもう引き返せない状況になっていた、ということになるのではないかと危惧しています。「歴史を知って歴史から学ばなければいけない」ということを肝に銘じてほしいと思います。日本がニ度と間違った道に進むことのないよう祈りたいと思います。

4月23日(木)朝8時からNHKBSプレミアムで「英雄たちの選択」の再々放送が予定されています。”開戦前夜!政治家斎藤隆夫の挑戦~命をかけた名演説~”をぜひご覧ください。


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by mako-oma | 2015-04-22 15:20 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

反軍演説の斎藤隆夫議員 除名の裏面史明らかに

ー帝国議会の記録文書公開ー
                 昭和61年8月14日 毎日新聞
軍への追従浮き彫り

軍靴の響きが高まる昭和15年に、国会で反軍演説を行い除名(議員資格はく脱)になった斎藤隆夫衆院議員について、除名に至るまでの帝国議会の論議を記録した文書が13日、国立国会図書館の手で公開された。反軍演説事件は軍部の横やりに議会が屈した政党政治崩壊の象徴として知られているが、これまでは資料がなく、議会内部の動きがはっきりしていなかった。この文書では懲罰委員会などで、議員たちが抵抗しながらも、結局は大勢に押し流されていく裏面史が初めて浮き彫りにされている。

この文書は当時の衆院書記官長(現在の事務総長にあたる)、故大木操氏(56年死去)が記録し秘蔵していたもので、家族がこのほど同図書館へ寄贈した。…中略… 同事件は昭和15年2月、衆院本会議で代表質問に立った立憲民政党の斎藤議員が「聖戦の美名に隠れて国民の犠牲を無視し、国際正義、道義外交、共存共栄、世界平和という如き雲をつかむような文字を並べたてて国家百年の大計を誤まる如きことあらば、政治家の罪は死しても滅しえない」と、政府を批判し、戦争の意義を追求。本会議終了後、陸軍側から「反軍的だ」と横やりが入り、小山松寿衆院議長が演説の大半を議事録から削除。さらに議会は同議員の除名を決めた。公開の文書では13回にわたる懲罰委員会の内容の一部が明らかにされている。議員らは、軍に迎合し職権で斎藤議員を同委に付した小山議長を追求。「(同演説は)時局ニ影響スル所重大ナルモ必ズシモ懲罰事犯アリト認定スルコトハ出来マセヌ」(中井一夫同委員長=立憲政友会)、「演説ノ如何ナル点ニ欠点ガアルノカ」(同)、「演説ノ前段ト後段トニ分ケテ考エルコトハデキナイ」(泉議員)など口々に議長を責め立てている。言論の府を守ろうとする抵抗の姿勢を示しているが、軍の意向を受けた議長はこれらの意見をすべて受け流している。さらに同議長は削除、懲罰の理由として「斎藤君ノ演説ノ後半ハ、汪政権ノ将ニ成立セントスル現段階ニ於ケル言議トシテハ、洵ニ遺憾千万」とし、さらに「国ノ内外ニ及ボスコトアルベキ影響ノ重大ナルヲ考ヘル時ハ,洵に深憂ニ堪ヘザルモノガアル」としている。しかしこうした姿勢の議員たちも懲罰委を重ね、記事を差し止めたはずの斎藤演説の全文が海外に流れ、「日本は戦争をめぐって国論が二分されている」と大反響を呼ぶに至って、次第に除名やむなしに傾いていったようだ。同委第7回速記録によると、外務省と陸軍省が海外の反響を報告。議員たちは「現在ノ外交交渉並ビニ外交案件ニドンナ影響ヲ与エタカ」(中山議員)などと発言、同演説を利敵行為と見なしていく。また同文書には小山議長が斎藤議員の演説中に「聖戦美名云々」など問題部分を走り書きしたメモもあり、軍を気にしてピリピリしていた当時の議会の情況を生々しく伝えている。懲罰委員会は11回の秘密会を開き、3月7日、衆院本会議に除名が提案され、賛成296、反対7で可決された。斎藤除名に走った各党議員百余人は、聖戦貫徹議員連盟を結成。軍部は翌16年、太平洋戦争に突入した。斎藤議員は演説が問題になったのは「政府が無能で態度を明らかにしなかったこと、識見なき議長が速記録を削除したため演説の全趣旨を理解し、懲罰反対の世論が高まらなかったこと、政党政派軍部に圧倒せられて抵抗する気力なく、その歓心を買おうとしたため」とのべている。反軍演説が行われた昭和15年は、日本軍がすでに中国大陸に進出しており、日中戦争のさなか。軍部は汪兆銘を首班とする南京政府の樹立を画策、同年3月に同政府が発足した。斎藤議員の除名から、半年後には政友会、民政党ともに解党し、大政翼賛会が成立していた。

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by mako-oma | 2015-04-18 07:24 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

区議会議員選挙

4月26日(日)には区議会議員選挙が行われます。関心もいまとつですが、区議会議員こそ私たちの身近な問題を扱っているのです。本職の片手間にやっているような人と、一生懸命に活動している人がいます。娘の友人Y.K.さんが立候補するとき、私は友人たちにお願いしました。ですから私は必ず区議会便りを切り抜き、彼がどんな活動をしているかを把握しています。彼のホームページには詳細な活動が記されています。彼の所属する政党の名前だけで、個人が評価されてしまうことのないようにしたいものです。
彼の区議会区政報告レポートやホームページを見ると、私達は区議会議員の実態を全く知らないということがわかります。区議を税金でヨーロッパに行かせる議案「区議の派遣」に賛成した議員が50名中34名だったということです。
今年も一人88万円の税金を使って6人の議員がヨーローッパ9日間の旅行に行ったそうです。これは海外姉妹都市との関係だそうですが、その都市だけではなく、周辺の都市も含めて回ってくるようです。出席するのは区長と議長で十分だと彼は言っています。一人で2回も3回も行っている議員もいます。議員派遣を廃止した予算で子供たちの姉妹都市交流枠を拡大すべきだと彼は提言しています。今回も彼は会派に充てられた一人枠を辞退したそうです。年額1000万を超える議員報酬を得るにふさわしい働きをしている人が何人いるのでしょうか。私たちの住む区を良くするための政策提言が出来る人なのかどうかを見極めたいものです。「区民陳情不採択」「役所提案なんでも賛成」を常とする議員には今度の選挙でNOを突き付けましょう!





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by mako-oma | 2015-04-13 12:18 | 政治 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫の言葉(2)

・寸にして断たざれば尺の憾あり、
 尺にして断たざれば丈の憾あり。                      
 一木と雖もその根が深く地中に蟠踞するに至っては
 之を倒すことは容易ではない 
           昭和11年5月 -粛軍演説よりー


・吾が言は、即ち是れ万人の声  
     わがげんは、これすなわちばんにんのこえ
   (私の言っていることは、皆が言っていることだ)
 褒貶毀誉は、世評に委す
     ほうへんきよは、せひょうにまかす
   (誉めたりけなしたりは、世間に任せる)
 請う看よ百年青史の上
     こうみよひゃくねんせいしのうえ
   (100年経って、歴史の上で見てくれ)
 正邪曲直、自ずから分明
     せいじゃきょくちょく、おのずからぶんみょう
   (何が正しくて、何が間違っていたか
    何が曲がって、何がまっすぐだったか
    自然とわかるだろう)

      -昭和15年3月 除名処分になった時残した漢詩ー



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by mako-oma | 2015-04-10 15:05 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

斎藤隆夫の言葉

・「政治家は一本のろうそくたるべし。自分の身を焼き尽くしてでも、世の中を照
  らし明るくしなければならない」 
        

・「国会議員に必要なのは見識ですよ。代議士が大臣になりたい、幸せになりたいでは国はほろびますよ。」

・ 「ワシは国政を論ずる代議士である。兵庫県の小さな利益のためにワシを使ってはならん。」

・ 「申すまでもなく政治は宣言ではなくして事実である。百の宣言ありといえども、一の実行なきところにおいて政治の存在を認めることはできないのであります。」

・ 「…そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。」


・ 「政党および代議士にたいしては常に監督の責任を忘れてはならない。これが国民の政治道徳である。選挙人を裏切るような代議士であれば、必ず落選せしめる。この考えがなくてはならん。しかるに、今日の国民がこれらの考えを有しているかどうか、これが問題である。」

私の知人・友人で、政治の世界に入られたた方が何人かいる。その方々が、政治を志し、当選された折には必ずお祝いに「斎藤隆夫の言葉」をお贈りしている。初心を忘れずに“国民のための政治家”であってほしいという願いからである。





  


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by mako-oma | 2015-04-07 20:44 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

⑨昭和の大蔵大臣 (294)

政府批判演説が外電に乗り国際的反響に
                       昭和59年12月6日
〈齋藤代議士除名)
ファシズムの猛毒は司法部門だけでなく、立法府部門、帝国議会をもおかす。その槍玉にあがるのが、さきに「粛軍演説」によって万丈の気を吐いた齋藤隆夫代議士なのだ。15年2月1日、成立したばかりの米内内閣のもとで議会が開かれた。各大臣の所信演説につづいて、民政党小川郷太郎、翌2日に政友会中島派東郷実、そして民政党斎藤隆夫が質問演説に立った。その演説は、1、政府は支那事変をどう考えているか。2、いつまでつづくのか。3、いかに処理されるのか。4、国民の失われた生命や財産をどうするか。の四つをポイントとしていた。その演説の後半部は官報速記録から削除されたが、たとえば草柳大蔵の『斎藤隆夫かく戦えり』は、その全文をおさめていて貴重である。官報速記録から削除された部分の中で、とくに問題となるのは、「この現実を無視して、唯いたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字をならべ立てて、そうして千載一遇(せんざいいちぐう)の機会を逸し、国家百年の計をあやまるようなことがありましたならば(後略)」「事変以来の内閣はなんであるか。外においては十万の将兵がたおれているにかかわらず、内においてこの事変の始末をつけなければならぬところの内閣、出る内閣も出る内閣も輔弼(ほひつ)の重責をあやまって辞職をする。内閣は辞職をすれば責任はすむかもしれませぬが事変は解決はしない。護国の英霊はよみがえらないのであります(拍手)」という箇所である。反響は、その夜軍部の中佐クラスからはじまった。彼らは、「聖戦を冒涜する非国民的演説だ」と激高して政府にねじこむ。陸軍の政府委員室から、「われわれが苦心中の南京(なんきん)新政府の成立に重大な悪影響をおよぼすこと必至である」という声が出ると、「問題は一挙に政治化」(草柳)した。官報掲載について、小山議長は後段全部削除を主張。大木書記官長は、演説の三分の二を削ることになるので、いやしくも言論の府であることを盾にとり抵抗したが、陸軍、政友会の声が高くなって、小山案どおりとなった。夜の九時、「新聞発表」のことに気づいたが、おそかった。「記事差し止め」の通達が出て、東京市内の新聞は削除済みの演説をのせた。しかし地方版には間に合わず、全文がのってしまった。それは、外国の通信社がそのまま打電し、国際的に大きな反響がおきた。斎藤の甥、山根隆夫軍曹は広東(かんとん)にいたが、「二個師団を失ったくらいの打撃だ」という声を耳にした。斎藤は、民政党を離脱した。政友会、社大党は追い打ちをかけ、懲罰委員会にかけて除名してしまった。議会はもっとも正論を吐く政治家を葬ることで、自らの首をしめてしまったのだ。
(おわり)
 

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by mako-oma | 2015-04-05 21:28 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

⑧昭和の大蔵大臣 (267)

軍部横暴の追求が「侮辱」に
                           昭和59年10月30日
〈腹切り問答〉
齋藤代議士の《粛軍演説》が代弁した国民の声をきいて、いわゆる軍部は反省の色をみせたであろうか。演説の10日後、陸海軍は管制改革を公表した。これによって軍部大臣現役武官制が復活した。政党はこれを黙認したが、実はこれが政治上の凶器ともいうべき危険なものだったのである。国民はこのあと間もなく、軍部の好まぬ内閣には陸軍大臣が送られないで、天皇の組閣大命を阻(はば)んだり、陸軍大臣を辞任させて内閣がつぶされる事実を目撃するのだ。そしてさらに、「庶政一新」のための議会制度改革を広田内閣に要求し、10月30日には新聞に陸軍の具体案が発表される。政党は大きなショックをうけた。なぜならばそのプランは、政党内閣制を否定していた。「政党法」をつくって政党の行動範囲を限定、議会は政府弾劾(だんがい)の権限をもたなくなる。普通選挙は廃止して、家長(戸主)と兵役義務修了者だけに選挙権をあたえる。時代逆行もはなはだしい非立憲的プランだったからだ。政党の怒りは、第70議会(昭和11年12月24日召集)における政友会浜田国松と寺内陸軍大臣との「腹切り問答」という形であらわれる。浜田は宇治市山田の出身で、このとき68歳。はじめ国民党、大正4年政友会に入党し、当選12回。9年には衆議院議長に選ばれ、10年3月には憲政功労者に選ばれていた。彼が12年1月22日に衆院で行った演説の紹介は割愛する。要は、軍の横暴が立憲政治を破壊するものだといったわけだ。ところがこれに対して寺内陸軍大臣は、「(前略)先ほどから浜田君が種々お述べになりました色々のお言葉をうけたまわりますると、中には或は軍人に対しましていささか侮蔑さるるようなごとき感じをいたすところのお言葉をうけたまわりますが、…(ノーノーの野次)これらはかえって浜田君のおっしゃいますところの国民一致のお言葉にそむくのではないかと存じます。(後略)」といったのである。憤然として浜田は登壇し、寺内を追求した。「(前略)陸相寺内君は私に対する答弁の中で、浜田の演説中軍部を侮蔑するの言葉があるということをおおせられた(中略)いやしくも国民代表者の私が、国家の名誉ある軍隊を侮蔑したという喧嘩を吹っかけられては後へ退けませぬ(拍手)。私の何等の言辞が軍を侮辱いたしましたか、事実をあげなさい(「その通り」と呼ぶものあり)。抽象的な言葉ではわかりませぬ。(後略)」寺内は、「(前略)侮辱するがごとくきこえるところの言辞は、かえって浜田君のいわれる国民一致の精神を害するからご忠告を申したのであります。(後略)」と答弁。浜田は三度目の登壇をして、「(前略)速記録を調べて僕が軍隊を侮蔑した言葉が合ったら割腹して君に謝する(「ヒヤヒヤ」拍手)なかったら君割腹せよ(拍手)」といった。このあと、寺内は強硬に衆院解散を主張したが、これはいれられず、議会の反省を求める意味で二日間の停会となった。
(つづく)



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by mako-oma | 2015-04-03 21:14 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

⑦昭和の大蔵大臣 (266)

斎藤演説に”反骨”水野も敬意と謝意
        昭和59年10月27日
〈大反響〉
斎藤隆夫代議士の「粛軍演説」の反響は大きかった。「満場静粛。時に万雷起る。議員多数、握手を求め、大成功を賞揚す。予も責任を果したる感あり大安心。速記を校閲し七時過ぎ帰宅」とはご本人の日記の記述である。その日、議会から直接東大の「音楽同好会」に足を運んだ渡辺銕造代議士(東京海上渡辺文夫会長の父)は、辰野隆などに向かって、「おれは今日の演説を聞いただけで代議士になった価値があったと思ったよ」と語ったという。各新聞は大見出しをつけて演説の一部を掲載し、歴史的大演説だと賞め上げた。その頃、愛媛県下でひっそりと暮らしている水野広徳という元海軍士官がいた。松山市は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって、秋山好古(陸軍大将)、真之(海軍中将)の存在が世に知られている。また、『肉弾』を書いた桜井忠温(陸軍少将で予備役)、『此一戦』を書いた水野広徳(海軍大佐で退役)の出身地でもある。ということは、正岡子規、高浜虚子などが出たことで日本文学史上「俳句」のメッカともいうべき土地であると同時に、「戦争文学」の両傑作が生まれた土地であるということでもある。これらの軍人のうち、水野ひとりは大いに変わっていた。秋山好古の海軍兵学校姿にあこがれて海軍に入り、のちに大将となった野村吉三郎、小林 躋造などといっしょに兵学校を卒業し、日露戦争では、水雷艦長の大尉として日本海海戦に参加し、明治43年36歳のときに『此一戦』を書いた。この帝国海軍の大勝利をたたえる記録は、「兵は凶器なり」という言葉ではじまり、「国大と雖(いえど)も、戦いを好む時は必ず亡び、天下安しと雖も、戦いを忘する時は必ず危し」の言葉でおわる。大正2年(1913)39歳で中佐となり、5年第一次大戦下のヨーロッパを見るため私費留学をする。そして、現代戦争がいかに大規模かを実感し、日本のような経済的貧困の国ではとうてい堪えられぬ、と考えた。すなわち、愛国的見地から戦争を否認し、軍国主義、帝国主義的思想が動揺をきたして、職業軍人として生きることに矛盾を感じた。大正7年44歳で大佐に進級。翌9年ふたたび私費留学の許可を得て、戦後のヨーロッパを視察し、その惨禍に胸を打たれた。ベルリンでの記述ー「僕は先に北仏戦場の惨状を見て現代戦争の恐るべく、忌むべく、厭(いと)うべく、呪うべくを知り、戦争に対する道徳観念に大なる動揺と疑惑とをました」(『反骨の軍人・水野広徳』、後篇「剣を解くまで」)。もはや軍人としての前途に希望を失った彼は、10年47歳で予備役。軍事評論家、社会評論家として立った。しかし「左傾的思想」として危険視され、執筆の自由を奪われていた。その水野の手紙が斎藤代議士にとどいたのである。「昨日の衆議院に於ける貴下の演説は、我が議会史上空前の名演説にして、我等国民は溜飲の下がる事ただに三斗のみにあらず、議会存在の意義を今日始めて教えられ候。謹(つつし)んで絶対の敬意と謝意とを表し候」 (つづく)
             

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by mako-oma | 2015-04-01 17:33 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)