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嫌った「カネ」「派閥」②

借金で運動資金

斎藤が最も嫌ったのは「金のかかる選挙」であり、派閥政治であった。斎藤が選挙に金をかけなかった理由は二つある。明治45年5月、初めて衆院に立候補した際、約2か月間、人力車で県内(当時、全権1区)をかけめぐった。買収の規制が緩やかだったころで、知人らからの借金で運動資金をかき集めた。しかし、結果は定数11の最下位ギリギリで当選。「土地の有力者に相当の運動費を渡しておいたが、予想の十分の一も票が集まらなかった。選挙の内情がこれまで考えていたことと違っていることに気づいた」と、買収が得票に結びつかなかったことを自覚する。もう一つは金権候補に敗れたことだ。大正9年5月、4回目の選挙の時、親交のある豪農が南但選挙区(養父、朝来、出石郡)から立候補したため、不利を承知で地盤のない北但選挙区(美方、城崎郡)に回った。斎藤の民政党と対立する政友会は、和歌山県の鉱山経営者である資産家を”移入候補”としてぶつけて来た。「普通選挙の実現」を政策に戦ったが、相手候補の金力に敗れ、ただ一度の落選を味わう。(つづく)



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by mako-oma | 2015-02-28 19:06 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

嫌った「カネ」「派閥」①

 またしても「政治とカネ」の問題で大臣が一人おやめになりました。過去から現在に至るまで、この問題で要職を去られた方は一体何人いらっしゃるのでしょうか?一向になくならないのはどうしてなんでしょうか?

今回から5回にわたり、【嫌った「カネ」「派閥」】〈昭和58年(1983年)12月30日 朝日新聞〉を連載いたします。  

けじめつけ筋通す  迎合せずに集まった票

「政治倫理」を焦点にした総選挙を前に、一人の政治家がにわかに脚光を浴びている。「理想とする政治家だ」と自民党幹部らが引合いに出せば、石橋社会党委員長も遊説先の神戸で「その勇気はすばらしい」とたたえた。但馬の城下町、出石町に生まれ、戦前、戦中、戦後を通じて現在の兵庫5区を中心に13回当選、ニ度にわたって国務相を務めた故斎藤隆夫である。政権政党に属しながら派閥政治を好まず、とりわけ軍人の政治介入を批判、「言うべきことを言う」政治家として潔く生涯を貫いた。79歳で世を去って34年、その語録は、今日の政治を指揮しているようにみえる。

国会議員に必要なのは見識ですよ。代議士が大臣になりたい、幸せになりたいでは国は滅びますよ (遺稿集から)

「5億円以上?」「いや、想像を絶する金額だ」。県内の各選挙陣営から、相手方の金権体質を批判する声が飛びかう。その矢は主に保守陣営へ向けられる。衆・参ダブル選挙がうわさされた今春からほとんどの陣営が事実上の選挙戦に入っている。このため、「選挙区に金権候補がいる」とみる陣営が多く、その金額も「5億円以上」(1区)「5億円くらいではないか」(2区)「約3億円」(3区)「億単位だと思う」(5区)などと、天井知らずの勢いだ。
(つづく)
   



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by mako-oma | 2015-02-26 09:54 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

憲政記念館ミニ企画展示

今、憲政記念館で開催されている展示の中に、「戦後70年特集 戦う代議士斎藤隆夫の再出発」というミニコーナーがあります。(開催期間 平成27年2月3日(火)~9月上旬まで) 昭和15年2月2日の「支那事変処理に関する質問演説」によって除名処分になりますが、その時の除名通知や、一般市民から寄せられた激励の葉書などと共に、 昨年NHKBS「英雄たちの選択」で紹介された、地元出石の中学生にあてた手紙も展示されています。終戦の翌年、わが国の将来を案じた地元中学生からの手紙に対し、「新日本の建設は政治の改革から始めねばならぬ。日本は敗戦に依りては亡びない。政治の善悪に依りて運命が決まるのである」と書いて送りました。ご家族が、70年近くもの長い間保管しておられたようです。終戦の現実を受け止めて再び歩み始める斎藤隆夫の戦後が紹介されていますので、ご覧いただければ嬉しいです。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/kensei/kensei.htm





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by mako-oma | 2015-02-24 19:10 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

政治家を選ぶのは私達

                     昭和58年10月 朝日新聞 
                        社会戯評

『判決公判の日、刑事被告人を拍手で送り迎えする国会議員をテレビで見て驚いた。あの橋もこの道路もみんな田中さんのおかげという新潟の人々も見た。田中角栄は一地方の便利屋さんにすぎなかったのか。あの新潟の人たちは国会議員とはみていなかったのか。判決の日、テレビは兵庫県に斎藤隆夫記念館が完成したと報じていた。草柳大蔵氏の「斎藤隆夫かく戦えり」を読むまでもなく、氏ほど地元に利益をもたらさなかった政治家は珍しい。郷里の出石鉄道が廃線となる際にただ一度、選挙区からの陳情に対し、「わしゃ国会議員じゃからのう」と、あまりいい顔をしなかったという。氏のおかげで出来たものは何一つないのに、終生、郷土の英雄であり続けた。田中角栄とは対照的である。国会議員を、おらが村、地域の利権獲得代表としかみない新潟の支持者と、自腹を切っても本当の国会議員を選んだ兵庫の有権者との意識の高さの違いといってしまえばそれまでである。だが、どんな政治家を選ぶかはわれわれ国民であることを忘れてなならない。われわれが「たかり」の根性だけは無くすようにしないと本当の政治家は生まれないし、政界浄化も夢のまた夢に終わる。』

4月には統一地方選挙があります。どんな政治家を選ぶかはわれわれ国民であることを忘れないで、一票を投じたいと思います。

                       


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by mako-oma | 2015-02-21 21:54 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

天地雲泥の差

                         昭和58年11月  朝日新聞

戦前の国会における粛群演説で知られる斎藤隆夫は、昭和15年3月、激怒した軍部と、軍部におもねる政党人によって、議員を除名された。その43年前の「帝国議会の暴挙」を引き合いにし、もっともらしい理屈で田中元首相擁護論をぶつものが、最近、自民党田中派内に目立つ。5億円を懐に入れて実刑判決を受けながら、反省の色もみせぬ人物と同列に扱われては、斎藤もさぞ迷惑なことだろう。斎藤があえて除名される道を選んだのは、粛軍の自分の信念が国民に支持されると確信したからだった。気骨ある政治家の心境は「吾言即是万人声」で始まる七言絶句に託されている。兵庫県但馬の出石町の出身で、24年10月7日、79歳でなくなった。35回忌を前に、先ごろ、生地近くに建設された斎藤隆夫記念館静思堂の完成式が開かれた。回廊に導かれる建物は、かわら屋根の軒が深い木造平屋建て。片隅に除名通知書や日記などの資料が飾られている。遺品の古びた三つぞろいの背広は、とても小さく、「ねずみの殿様」というあだ名を裏づける。服は裏返してあり、胸ポケットやボタン穴のかがった跡がはっきりわかる。質素な暮らしをしていたのである。風采は上がらなくても、演説は論旨明快、声もよく通った。ニ度国務相となったが、子分はおらず、自家用車も別荘も持たなかった。自署の「回顧70年」では「東京に来てから49年目」にして「自己所有の家屋に移転」と喜んだ。死亡する24年の元日には、戦災で焼失した「住宅を新築または買い取らざれば家庭安定せず」と日記に書いた。新潟県下では、公共事業の「越山会査定」が始まった。」 かつて斎藤は郷土のための前に国のために働く、といった。選挙に強かったのは、手弁当の熱心な応援者がいたからでもあった。地元の財団法人斎藤顕彰会は、7回忌に「頌徳斎藤先生」と彫り込んだ自然石の巨大な石碑を建てている。集めた資金の一部で山林を買い、スギとヒノキを植え育てている。絶えることなく顕彰を続けたいからだという。ねずみの殿様と闇(やみ)将軍と、似ているのは雪深い日本海側の出ということだけだ。時代は違うが、天地雲泥の差ではないか。』


7回忌には私も学校をお休みして出石に行きました。着物姿での除幕の写真は昭和30年10月9日の新聞に載りました。  




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by mako-oma | 2015-02-19 13:28 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

政治家は選挙民の気持ちを映した鏡

                   昭和58年3月17日 日本経済新聞 夕刊
                           鐘

『「道路の修理や架橋の陳情にゆくと、“ワシは国政を論ずる代議士である。兵庫県の小さな利益のためにワシを使ってはならん”と追い返してしまう」(草柳大蔵著「斎藤隆夫かく戦えり」)

臨調の最終答申が出され、土光会長は「日本にとって今が大事な時。行革には日本の将来がかかっている」と語った。この発言、政治家の口からこそ、聞きたいものであった。この二年間、臨調が脚光をあびるのに反比例して、国会の影は薄くなる一方だった。考えてみれば、行政改革などというものは、国民から選ばれた議会がその方向を打ち出すべきものであったろう。その機能を臨調が肩代わりせざるを得なかったわけだが、こんな状態が続くと、国会議員は何のためにあるのかと、その存在意義を問われることになる。

斎藤隆夫の選挙区の多くは今でも草深いところで、政治の光を最も必要としている地域のひとつである。しかし、地元の人々は、憲政史上に残る斎藤隆夫を出したことに誇りを持っている。「当時の政界にこれくらい存在感のある政治家はいなかった」といわれる斎藤隆夫も偉かったに違いないが、軍部台頭の中で議会を除名されるまでになっても、これを支えてきた選挙民も立派であった。臨調は終わり、選挙の季節。この際、政治家は選挙民の気持ちを映した鏡であることを、もう一度考え直してみたい。』

昭和58年の新聞記事だが、これは私にとって忘れられない記事である。

祖父が生存中も、そして亡くなった後も、そして世代を越えて親から子へと、斎藤隆夫に対する思いを引き継いできてくださった出石の皆様。 「斎藤隆夫も偉かったに違いないが、斎藤隆夫を支えてきた選挙民も立派であった」 まさにその通りである。


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by mako-oma | 2015-02-16 21:16 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

新年会

今日はちょっと別の話題を。先日私が通っているエクササイズの新年会がありました。2時間エクササイズをした後に、近くのレストランで早めの夕食をいただきました。しょっちゅう通っているのに今まで全くそんなところにレストランがあるなんて気が付きませんでした。本当に隠れ家的レストランです。外から直接リビングに上がり、コートは別のお部屋にかけ、本当に普通のお家にお邪魔した感じでした。お料理もマダムが作ってくださる家庭料理で、とっても美味しかったです。お部屋の雰囲気も素敵でとてもリラックスできました。当日は、天気予報では雪ということでとても心配したのですが、幸い雪にはならなかったものの、冷たい雨の降るあいにくのお天気でした。それにもかかわらず、先生の昔からの生徒さんでいらした方が顔をみせてくださいました。なんとお年は91歳!偶然にも私の小学校時代の同級生のお母様ということをごく最近知ってびっくりしたのですが、本当に素敵な方なんです!長年ゴルフとスキーをなさってきただけあるな、と感じました。お話を伺って、私も見習わなくてはと思いました。お食事も栄養バランスをよく考えられて、色々なものをめし上がっているのです。血液サラサラのためには、玉ねぎは欠かせないということです。月に一度はコンサートにいらっしゃり、読書もされていて、本当にお元気です。パワーをいただきました。ありがとうございました。

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by mako-oma | 2015-02-14 20:00 | その他 | Trackback | Comments(0)  

首相の答弁

                昭和57年 毎日新聞
                     余禄

              
『「申すまでもなく、政治は宣言ではなくして事実である。百の宣言ありといえども、一の実行なきところにおいて政治の存在を認めることはできないのであります。」(拍手)*弁舌は一段と熱を帯びる。「それゆえに今日はかかる政治上の題目を繰り返して、これに陶酔しているときではない。速やかにこれを具体化して、その実行にとりかかるべきときであります」。衆議院本会議場は静まりかえった。ヒナ壇の首相も粛然と耳を傾けている。*行革の決意がヤリ玉にあげられる。「私は決して政府が改革をするというところの決意を聴かんとするのではないのであります。聴かんと欲するところのものは決意ではなくして方法であり内容であるのであります。(決意だけなら)別にお答えはいらぬのであります」*「ずいぶん長い間、そういう答弁を聞かされてきたのであります。この上同じような答弁を聞くところの忍耐力はもっておらない」。はき捨てるようにそういうと、首相の顔が心持ち紅潮した。宣言ではなく実行、決意ではなく具体的方法。当然至極だが、耳の痛い指摘だからだ*質問演説に立つのは斎藤隆夫、ヒナ壇に座るのは広田弘毅だが、鈴木首相でも少しもおかしくない。「財政再建がやれなければ責任をとる」「59年度赤字国債脱却の公約実行には政治責任を持つ」「防衛費の国民総生産1%以内という方針を変更する必要はない」。宣言と決意の大安売りだ*どれも至難のものばかり。聞きたいのはどうやるかだが、首相は肝心の点をぼかしたままだ。空疎な決意をこれ以上聞く忍耐力は持ちあわせていない。46年前の演説が依然有効と知って、斎藤は喜んでいるか悲しんでいるか。』

この新聞記事からさらに33年、斎藤隆夫の演説から80年近く経った現在にいたるまで、歴代の首相は本当に国民の聞きたいことに対して、きちんと答えてくれたのであろうか?


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by mako-oma | 2015-02-12 22:19 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

演説はどこへ なにが感動か

                    昭和56年6月17日 毎日新聞 夕刊

                             編集委員 岩見隆夫

『斎藤隆夫をおいて、議会演説を語ることはできない。若いころの竹下登にはため息が出るような体験がある。「あれは、僕が復員して大学に入り、傍聴にきてたんだ。終戦の年の第89帝国議会。斎藤先生が、東条英機が戦犯なら、三国同盟を結んだ近衛(文麿)さんはなぜ戦犯でないのか、とやっていた。数日後、近衛さんは自殺されたが、とにかくすごい迫力だと思ったね。傍聴席で拍手をすると退場を命じられるから、僕は拍手を我慢するため、自分の両手をぎゅっと握りあわせた記憶がある」 斎藤の面目は、戦前に躍如としていた。昭和議会史の前半は、軍部と政党の抗争。その主役が民政党の斎藤だった。ニ度、斎藤は壇上から挑戦した。最初は2・26事件直後、昭和11年5月の粛軍演説。軍部の乱れを一刀両断にした。軍首脳部はショック、国民は溜(りゅう)飲を下げ、翌朝の『東京日日』(現在の『毎日』)には大見出しが躍った。「斎藤氏熱火の大論陣 国民の総意を代表し 軍部に一大英断要望」ついで15年2月。支那事変が4年目に入り、大戦前夜の日本は泥沼にのめりこもうとしていた。

斎藤が代表質問に立つ。「いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない…」の箇所で熱弁は最高潮。軍部が激高した。聖戦の大理想を無視した非国民的言論だ、と怒り狂い、議会は強硬な懲罰要求に屈して斎藤を除名処分にした。除名には政友会の芦田均、社会大衆党の片山哲らが反対したが、この二人は戦後奇しくも首相になっている。のちに片山はテレビ対談の中で、次のように語った。「拍手なりやまずという光景でしたね。私の生涯の中で聞いた議会演説としては最高峰です。小さな斎藤君が首をふりふり演説するのですが、それがまた異彩を放って、もう檀上いっぱいにみえるくらいでした」「私のいちばん感銘したのは、聖の戦いなどありえない、戦争は残忍きわまるものだと述べられた点です。それを斎藤君は伊藤博文公の『憲法義解』一冊持って、新聞の切り抜き2~3枚と順序を書いたメモだけで、下を見ないで演説する。つまり世界に響け、というような、力がこもっておったなあ」兵庫県出身の斎藤を、かつての文人知事、阪本勝は「真の大勇なくして到底なしえない。但馬が生んだ偉傑」と評した。』




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by mako-oma | 2015-02-10 14:21 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

クラス会

昨日、大学のクラス会がありました。毎年2月の第1土曜日にクラスメートがやっているお寿司屋さんでやるという定例の新年会です。大学のクラス会というのは、わりと珍しいようですね。60人中女性は二人だけでした。いつもだいたい決まったメンバーですが、私達二人は必ず出席です。10年ほど前、10年ぶりにスキーをして骨折しましたが、その時も松葉杖をついて行った記憶があります。一年に一回みんなに会うのがとても楽しみです。相棒は伊豆に引っ越してしまわれるようですが、来年もぜひ出席してくださいね。

その席で言われました。「ブログ、毎日はやりすぎ」そんなに頻繁に見れないから、一週間に一度開けて見れるくらいがちょうど良いようです。そこで、今までは毎日新しい記事を載せていましたが、ちょっとのんびり行くことに決めました。皆様も気が付いたときにのぞいてみてくださいね。


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by mako-oma | 2015-02-08 15:37 | その他 | Trackback | Comments(0)