園長先生学園葬

12月に入ると第一週は朝8時代に家を出て、一日中外にいた日が一週間に3日もあり、朝ドラが抜けてしまったり、新聞がたまってしまったり、開封してない郵便物があったりで、本当に忙しかったです。2日の日は幼稚園の時の園長先生の学園葬があり、学年幹事は8時45分集合でした。97歳で亡くなられたのですが、数年前迄現役の園長先生でした。今年創立70周年を迎えましたので、親子孫と三世代に渡ってお世話になった方も多くいらっしゃいます。私の頃はまだ制服もなく、幼稚園のお人形さんを家に持って帰つて母が洋服を作ってくれたりと、とても家庭的な幼稚園でした。父に手をひかれ、幼稚園に通った記憶は今でも鮮明に思い出されます。この園長先生は母の学校の先輩で、後になって、母と結婚する前の父をご存知だったと聞きびっくりしました。8時45分から3時までの予定だったので、完全防寒で行きましたが、お天気にも恵まれ受付で動いていましたし、またストーブを用意してくださったので、持参のホカロンも使わずにすみました。お天気にも恵まれ多勢の方が参列され、お手伝いさせていただきとても嬉しく思いました。創立60周年の時に同窓会組織ができ、先生もとても喜んでいらっしゃいました。この縦の繋がりが末永く続くことを先生はきっと天国からご覧になっていることでしょう。
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# by mako-oma | 2017-12-08 09:48 | 交流 | Trackback | Comments(0)  

疎開の記憶

秋晴れのある日、夫と二人で鬼怒川までドライブしました。温泉に入るわけでもなく、観光するわけでもなく、ただ行って写真を撮って帰って来ただけです。何で鬼怒川へ? 今月夫は75歳のお誕生日を迎え、後期高齢者の仲間入りをしました。私は戦後生まれ、夫は疎開経験者です。70年前5歳のとき、東京を離れ鬼怒川に疎開していました。この写真はそれよりも前の3歳ぐらいだと思われます。
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義母からも鬼怒川での話はよく聞いていました。畑を作って色々な野菜を育てたこと、ヤギや鶏、あひるを飼っていたこと。遠くまで水を汲みに行ったこと。夫は聞きたいことが沢山あるようですが、既に義母は亡くなり、また写真を撮っても誰も懐かしがってくれる人はいない、というので私のブログで取り上げてあげることにしました。途中紅葉が見ごろで、快適なドライブでした。

鬼怒川温泉は、昔は大勢の人でにぎわったのでしょうが、今は見る影もなくさびれてしまい、川沿いのホテルの窓ガラスは割れほうだい、廃墟と化していました。お店もシャッターが下りていて、営業している様子はうかがえませんでした。
”星のや”という温泉に毎日通っていたそうで、当時は木造だったものが建て替えられ、昔と同じ場所に5年前に廃業したホテルがそのまま残されていました。

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長い階段があり、それを登ったところに帝釈天がありました。その奥の今は雑木林になっているところに住んでいた家があったそうです。

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そして今公園になっているところの一角に畑があったそうです。畑の奥は崖だったという記憶はその通りでした。水を汲みに行った川もありました。5歳のと時にくろがね橋の上で撮った写真があります。今も同じ場所に橋がありました。今はグーグルマップですべて見れてしまいますが、やはり実際に来てみて良かったと思いました。






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# by mako-oma | 2017-11-29 10:13 | 家族 | Trackback | Comments(0)  

御殿山

もう来週は師走です。11月は本当に忙しかったです。書きかけのものが下書き一覧にたまってしまいましたので、順次ご紹介したいと思います。11月10日から12日までの3日間"GOTENYAMA ART& TECHNOLOGY WEEK 2017"というイベントが行われました。御殿山は私が生まれ育ったところです。その御殿山でこのようなイベントが行われるということは、私にとってとても新鮮でした。
御殿山は昔太田道灌が江戸城に入る前に御殿山城というお城を構えていたそうです。ここで夢のお告げを受け、江戸城を築いたと伝えられています。その後江戸時代に入り徳川家康がこのあたりの自然を愛し別邸としました。品川御殿と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休憩地として、また幕府重臣を招いてのお茶会の場として利用されたとのことです。
ここは桜の名所として浮世絵や錦絵にも登場します。現在のミャンマー大使館が建設された時には、「御殿山の桜がなくなる!」ということで大問題になりました。開国後幕府は諸外国の公使館を御殿山に建設することを計画しましたが、有名な「御殿山英国公使館焼討事件」が起こります。長州藩士高杉晋作、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)ら尊王攘夷派13名が襲撃し全焼してしまいました。
御殿山は、池田山、島津山、花房山、八ッ山と共に城南五山と呼ばれています。

母は御殿山で生まれ御殿山で育ち御殿山の我が家で大好きなショパンを聴きながら亡くなりました。あのバブルの最中、森ビルの御殿山開発計画が持ち上がりました。今回イベントが行われた地は元々実業家原六郎さんのお屋敷でした。ここに森ビルが事務棟と住宅棟の二つの高層ビルを建てるという開発計画により近隣住民は次々と御殿山を離れていきました。
元々御殿山の土地のほとんどは原さんの所有でした。原家で働く使用人の方々のお家も沢山あり、多くは借地ということでした。原さんは祖父と同じく兵庫県出石の出身でずっと祖父のことを支援してくださいました。そういった関係で、うちは特別に譲っていただき、所有できました。そういった経緯もあり、母は最後まで御殿山を離れることには反対しました。

我が家のお隣が原さんの一万坪のお屋敷で、私が子供の頃はトウモロコシ畑があり、テニスコートがあり、大きなお池にはザリガニが沢山いました。山あり谷あり、子供にとっては最高の遊び場所でした。現在原美術館のある所にはミャンマーがビルマと言われていた時代、ビルマ大使館がありました。一時廃墟のようになっていた時期もありますが、子供にとっては興味深々でした。でもこのお屋敷の中にはやっちゃんが一緒でないと入れませんでした。普段は門のところに怖いおじさんが立っていました。やっちゃんは原さんのご親戚で、この敷地内にお家がありました。そのやっちゃんと数年前、思いもかけず半世紀ぶりに再会しました。一年に一度の同窓会は、家族連れなどすごく大勢の人が集まります。その中で、私の横にすごく背の高い男性の気配を感じ、振り向くと後姿が見えました。「もしかしてやっちゃん?」私は前に回って顔を見上げました。やっぱりやっちゃんでした。お母様もお姉様もすごく背の高いかたでした。もう懐かしくて子供時代のことをいろいろ思い出しました。もう一人の男の子と三人でよく御殿山中を自転車で走り回りました。

原さんのお庭の一部は今も御殿山庭園として残っています。今回のイベントではここで最先端の技術を使ったアトラクションが行われました。夜暗くなってからヘッドライトをかぶり、パーソナルプロジェクションマッピングによって、人間ではない生き物の感覚で夜の森を見ることができるというアトラクションです。娘と孫が体験しました。彼女たちにも私や母の御殿山に寄せる思いを知って欲しいと思います。

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# by mako-oma | 2017-11-10 16:03 | その他 | Trackback | Comments(0)  

青年会OB・OG会


今年もまた恒例のOB・OG会が開催されました。半世紀前、私達はカトリック高輪教会の青年会で共に青春時代過ごしました。その仲間達が、一年に一回、懐かしい高輪の地に集まると、あっという間に50年前にタイムスリップしたような気持ちになります。その頃青年会の皆から"ママ"と呼ばれていたおば様も、92歳になられましたが、今年もお元気で参加されました。当時聖歌隊の指導をしてくださった先生も、91歳というお歳とは思えない相変わらずの張りのあるしっかりとしたお声でご挨拶されました。例年御ミサをあげてくださるのは、当時主任司祭でいらして、青年会の活動に積極的に参加してくださったお二人の神父様でしたが、今年はそのお一人であるアメリカ人の神父様は函館にいらしてしまったので、残念ながら参加されませんでした。今回、初めてこの会に参加された私と同じ名前のM子さん。おそらく何十年とお会いしていなかったと思いますが、長い髪にクリクリっとした目は昔のままでした。この再会は驚きの再会でした。彼女の息子さんはもう20年以上もドイツ・デュッセルドルフ在住で、奥様はドイツ人。3人のお子様がいらっしゃり、M子さんは、毎年そのお孫ちゃんに会いにデュッセルドルフに行かれるとのこと!何と懐かしいデュッセルドルフ!彼女はスマホを取り出し、何枚もの写真を見せてくれました。ライン川沿いの懐かしい景色に感激です。息子さんは二十歳の時にドイツに行かれたそうです。行ってすぐに、彼は幼稚園時代にお世話になり、その後ドイツにわたられたシスターを訪ねたそうです。私とM子さんは確か同じ歳だったと記憶しています。おそらく息子さんも我が家の娘たちと同じくらいの年齢かな?と思いました。37年前、私達がドイツに旅立った時は、まだ直行便はなく、アンカレッジで一端飛行機を降りました。その時、何人かのシスターのお姿が目にとまり、お話させていただきました。皆様これからデュッセルドルフで幼稚園の運営に携われるとのことでした。何と、長女がこれからお世話になる幼稚園だったのです。あらかじめ日本で決めていたカトリックの幼稚園は、それまで運営されていた修道会がその年度で終わ
り、新たな修道会のもとに運営されることになったのです。飛行機でご一緒したシスター方は、その新しい宮崎カリタス会の皆様だったのです。不思議なご縁を感じました。長女も次女もこの聖母幼稚園で本当にお世話になりました。6年間のデュッセルドルフ在住中、4年間幼稚園の送り迎えをしました。中でもシュヴェスター(独語)・ウベルティーナとの思い出は子供たちにとって忘れられないものになっています。毎年クリスマスカードのやり取りだけですが、いつも子供たちのことを気にかけてくださいます。何と、そのシュベスター・ウベルティーナが、M子さんの息子さんが真っ先に訪ねたシスターだったのです!M子さんもデュッセルドルフに行くときには、シスターにもお会い
になるそうです。息子さんが幼稚園時代にシスターと一緒に写っている写真を見せてくださいました。37年前、子供達が幼稚園時代のお顔です!私たちがドイツから帰国して既に31年。今はケルンですが、シスターはずっとドイツです。シスターも私とほぼ同年齢だと思います。いろいろと大変だと思います。いつか、シスターとM子さん、そして私の3人でお会いしたいです。
懐かしい写真を探しました。
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# by mako-oma | 2017-10-10 09:33 | 交流 | Trackback | Comments(0)  

開東閣

しばらくブログをお休みしてしまいましたが、下書き一覧に入っていてそのままになっている記事がいくつもあり、その一つを、ちょっと季節は変わってしまったのですが、ご紹介したいと思います。

新緑の5月は、気候も良いので、1年に1回開催される会が続き、忙しく過ぎていきました。その一つ、同じ時期ロンドンに住んでいた方たちが集まる会もありました。毎年懐かしい顔に会えるのでとても楽しみにしていますが、今年は特別でした。それは、開催場所が開東閣だったからです。開東閣というのは、旧岩崎家高輪別邸です。敷地面積は11,200坪。明治22年、岩崎久弥(3代目)が伊藤博文からこの土地を譲り受けました。明治33年、これを岩崎弥之助(2代目)が譲り受け、明治41年、ジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられました。現在は三菱グループの倶楽部として使われていますが、一般には公開されていないので、なかなかここに入ることはできません。私は幼いころ、ここの前を通って品川駅まで行きました。子供の足ではどこまで行っても、開東閣の長い石垣が続いているようで、中は高くそびえる大木がうっそうと茂っていて、外からは全く何も見えません。子供心にここは一体何なんだろう、どんな人が住んでいるんだろう、と思っていました。大人になり、何度かここに入る機会に恵まれました。それはいつもゴールデンウィークの頃でした。ちょうど藤の花が満開となる頃で、見事な藤棚でした。最後にお庭に入ってからもう50年近く経つのではないかと思います。久しぶりの開東閣、しかもバラの時期というので、私はその日を心待ちにしていました。正面入り口から洋館までは緩やかな坂が続きます。樹齢何年になるんだろうと思われる大木が茂っています。洋館の右手がバラ園になっています。800株以上あるといわれるバラは見事に咲き誇っていました。これだけの広さのお庭をわずか5人の庭師でやっていると聞き驚きでした。洋館の内部はクラシック調で、素敵なバーカウンターもありました。昔から開東閣はバラの季節が良いと聞いていたので、いつかはバラの咲くころに来てみたいと思っていました。今回それが実現し幸せでした。
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# by mako-oma | 2017-07-21 16:39 | 行事 | Trackback | Comments(0)