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台湾旅行(6) 台湾総督府②

新国立競技場の新しい二つのデザイン案が今日公表されました。台湾総督府の建築に関しても同じようなことがありました。

日本統治時代の最高統治機関である台湾総督府(現総統府)に関しては、台湾交流協会のホームページを見ると、とても興味深いことが書かれています。その中から一部ご紹介したいと思います。

東洋随一とうたわれた西洋建築である旧台湾総督府。赤煉瓦と花崗岩の白石を混用して造られ、とても重厚感があります。現在、この建物は中華民国総統府として使用されています。この建物の建築に際してはいろいろと秘話があるようです。

これはわが国における最初のコンペといわれています。そのデザインについては公募という形でプランを募りました。これは時の民政長官・後藤新平自身の発案によるものという説が存在するそうです。1906年(明治39年)に総督府の名で実施され、評審委員には辰野金吾をはじめとする建築界の重鎮が名を連ねていました。審査は二段階となっており、甲賞、乙賞、丙賞を各一名選出することとなりました。第一回目の審査では、外観などの基本デザイン、そして第二回目で細部にわたる部分についての審査が実施されたそうです。一次審査で入選した7名には更に修正案を出させ、約1年後に二次審査が行なわれました。

審査の結果、辰野金吾の愛弟子である長野宇平治の案が一等となりましたが、最優秀案である甲賞は該当なしとされ、長野の作品は乙賞に留まりました。長野は時の台湾総督・佐久間左馬太に異議を申し立てましたが、受け入れられませんでした。彼は銀行建築を数多く手がけ、また日本建築士会(日本建築家協会)の初代会長もめ、明治期における西洋古典様式の若き旗手でした。

台湾総督府の側からは統治機関としての威厳をより強調することが要求され、これを受け、同じく辰野の弟子である森山松之助によって長野案に修正が加えられました。森山松之助は当初は、地上6階建て程度だった中央塔を9階(最頂部分は11 階に相当)にまで引きあげました。これにより中央塔は高さ60 メートルとなりました。そして、現在のデザインが確定しました。

長野はこの前後、わずかな間、台湾総督府の嘱託技師となっていますが、その後は台湾に関わることはありませんでした。一方、森山は総督府庁舎の設計を機に、台湾建築界の重鎮となっていきます。彼が設計した台北、台中、台南の三棟の州庁舎は、いずれも歴史建築として保存対象となっています。

起工式は1912(明治45)年6月1日。敷地面積は2165 坪。当時、台湾で最も大きな建物でした。造営は台湾総督府営繕課が担い、作業員はすべて日本から呼び寄せられました。当初予算は150 万円でしたが、これでは全く足りないということで、後に200 万円に増額され、さらに第一次世界大戦に伴うインフレを受け、最終的には約280 万円という額になりました。

いつの時代も大幅な予算超過となるようですね。

当初からこの建物は永遠に使用されることが前提となっていました。台湾は日本と同様、地震国です。測量は一年近くにも及び、基礎部分を仕上げるのにも、さらに約一年歳月を費やしました。地震対策については、驚くほどの徹底ぶりでした。
用材については、木材は阿里山産のヒノキ材をはじめ、新竹州産のケヤキが多く用いられたということです。また、鉄骨部分に鉄道用のレールを用いたとも言われています。

建物が完成したのは着工から7年後の1919(大正8)年3月でした。
この時の台湾総督は明石元二郎でした。1918(大正7)年6月6日、明石は第7代台湾総督に任命されますが、総督府竣工後、わずか半年あまりでインフルエンザで亡くなりました。明石の遺体は生前に残した遺言に従い、台北市三板橋の日本人墓地に葬られました。日本統治時代の半世紀、19 名の総督がいましたが、明石は唯一、台湾の地に永眠した人物でした。





by mako-oma | 2015-12-14 17:10 | 旅行 | Trackback | Comments(0)  

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