斎藤隆夫にみる真の政治家

風見鶏    民衆の声代弁、議会百年に光芒
                     
       1990年(平成2年)3月19日 日本経済新聞

国会議事堂に隣接する憲政記念館で、恒例の特別展が開かれている。今年は昭和の政党史がテーマ。昭和初期の政友会、民政党による政党内閣時代から戦後、昭和30年の保守合同、左右社会党の統一までを扱っている。戦争をはさんで、政党政治の興隆、退潮、復興の歩みが各種資料によってたどれる仕組みである。明治憲法下の戦前の政治で、政党や、それを土台にした議会政治が、本来の意味で十分機能せず、結局、軍部や官僚に取って代わられたことは歴史の示す通りだ。今日とは違い、そこには様々な制約があった。だが、軍部の台頭を許した責任の多くは、政党自身の腐敗や抗争、足の引っぱりあい、さらには軍部や時の権力への追従にあったこともまた疑いない。自ら墓穴を掘る形で政党政治に幕を閉じる戦前の議会史で光芒(ぼう)を放つのは、民政党代議士、斎藤隆夫(1870-1949)の存在であろう。軍部や官僚の主導する政治の追認・協賛機関にすぎなくなった議会で、「ネズミの殿様」のあだ名を持つ斎藤は、小柄な身体に似ず、二度にわたって政府・軍部を批判する演説を行った。昭和15年2月の演説のあと、斎藤は軍部と、これに同調する議会によって議員を除名される。その演説は衆院議長の手で大幅に削除された。斎藤の属した民政党は軍の圧力に抵抗するどころかかえって辞職を迫った。除名反対の片山哲、西尾末広らを抱えた社会大衆党は、逆に西尾らを除名した。今年の特別展はこの斎藤隆夫を「異色の政治家」として採り上げ、特別のコーナーを設けている。斎藤は辞職を勧告する民政党幹部に「言論の議会で国民が問わんとする所を問うたのであり、議員の職をなげうつは国民に対して忠なる所以(ゆえん)でなく、憲政擁護の途でない」と反論した。斎藤隆夫については何冊かの著作があり、回想録もある。詳細はそれらの書物に任せるとして、問題は政治家の在りようとして当然とも言える、「国民が問わんとする所を問うた」斎藤を、「異色の政治家」と紹介しなければならないわが議会史のさびしさ、むなしさである。日本の議会はこの秋、明治23年の帝国議会の開設から百周年を迎える。が、その長さに比して、民衆の声を代弁し、民権の発展や憲政擁護のために足跡をしるした政治家はさほど多くはない。戦前の多くの時期、民主主義やリベラリズムは異端とされ、危険視されてきたことを考えると、それは当然の結果と言えるかもしれない。議会は斎藤を除名したが、その際、7人の議員が反対票を投じた。そのなかには後の首相、芦田均らの名が見える。除名を決めた本会議では賛成296、反対7のほか144もの大量棄権票が出た。反対票を投じる勇気はないものの、時勢を憂え、斎藤の言動に共鳴を寄せる議会人がなお多数いたことを物語っている。考えてみれば、少数派で、異色の存在であった斎藤隆夫によって、戦前の議会史はかろうじてその存在と名誉とを後世に対し残し得たといえよう。と同時に戦後史のなかで必ずしも高い評価を与えられていない片山哲、芦田均、西尾末広といった政治家が、議会の存亡の危機に際し、憲政擁護と言論の自由のために、それこそ命がけで行動し、政治信念を貫いたことは、もっと記憶されていいだろう。今日、政党政治に基づく日本の議会政治は、戦後40年を経てそれなりに定着している。戦後復興や経済発展に寄与したところも少なくない。だが、俗に「永田町」は別世界視されるように、国家や政党の現状に対する世の不満が強いのも事実である。今回の特別展には議会を除名された斎藤隆夫を励ます一般市民からの古びたはがきや手紙が多数、展示されて印象深かった。現存するものだけでもその数は700通をこえるという。  (編集委員 金指正雄)

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by mako-oma | 2015-05-04 21:28 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)  

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