反骨の政治家 斎藤隆夫の日記公開
昭和初期の軍部台頭や政党の無力を如実に
1990年(平成2年)11月6日 産経新聞(?)
大正・昭和を通じ憲政会・民政党議員として活躍、2・26事件、日中戦争の混乱期に軍部からの圧力にも屈せず”反軍演説”をしたことで知られる斎藤隆夫の日記が10日発売の「中央公論」12月号で公開されることになった。掲載されるのは全日記のうち、昭和14年12月から15年3月までの4か月間。淡々とした事実の記述の中に、隠れた昭和史の一端をうかがわせる貴重な資料といえる。斎藤元代議士は、明治45年の総選挙に、郷里の兵庫県から国民党候補として出馬して初当選。大正期には、憲政会議員として普通選挙論を展開し「大正デモクラシー」期の旗手の一人となった。昭和11年、2・26事件直後の第69議会で軍部を批判した「粛軍演説」は特に有名。さらに、「支那事変がぼっ発しましてからすでに、2年有半…、内外の情勢はますます重大を加えているのであります」ではじまる15年2月2日の議会演説では、対中国政策を舌鋒鋭く指弾した。この演説については「首相、蔵相、興亜院総裁答弁あり、きわめて不完全なり。予の演説に付ては小会派より幾らかの野次起こるの外拍手を以って迎える」など、細部にわたって書き残されている。しかし、「支那の独立主義尊重」の名で行われる戦争に疑問を投げる演説も、日記によれば、民政党総裁さえも賛成ではなかったという。昭和初期の軍部の台頭と政党の無力さを如実に物語っている。斎藤元代議士は、この演説がもとで議会を除名になった。除名決定直前、2月24日の日記には「経過並びに懲罰理由など7項目を一々弁駁(べんばく)し、更に(懲罰動議の)提出者の説明を求む。…委員会は予の全勝なり」と記している。戦後も日本進歩党結成に参加したが、24年10月7日、79歳で亡くなった。日記は、このほか議員になる前の明治39年から没する直前の昭和24年7月まで、毎日の行動記録がB4判大のノート20冊に克明に記されており、同代議士の二男で元衆議院法制局次長の義道さん(69)が保管していた。義道さんは「今年は国会開設100年にあたり、おやじの業績も改めて評価されるのではと思い、プライバシーにかかわる部分は除いて公開に踏み切った」という。
by mako-oma | 2015-04-28 16:04 | 斎藤隆夫 | Trackback | Comments(0)